第二幕 025話 連峰、晴れて_2
つまらぬ。
実力で負けたとは思わぬが、少なくともあの勝負では後れを取った。
油断もあったにせよ、あのセサーカの実力は確かに予想以上で、戦い慣れていたのもわかる。
しかし、もう一度やれば負けることなどない。
このクジャでは妾を知らぬものはおらぬ。
物を知らぬ余所者をからかってやろうと思ったのに、してやられて、そこを長老に見つかった。
カチナは口うるさい。
氷巫女としての自覚がどうとか、また説教が始まるだろうと思いあの場を離れた。
つまらぬ。
「メメトハ様……」
リィラが左から声を掛けてくる。
「お怪我は大丈夫ですか?」
レニャが右から訊ねてきた。
「怪我などありはせぬわ」
ふん、と鼻を鳴らしてから、左腕の赤い筋が目に入る。
掠り傷。
(……妾の体に傷など)
久しく記憶にない。
確かに本物の氷乙女と呼ばれるほどまでの力はまだないが、他の戦士よりは頭いくつか抜けている。
クジャの周辺の魔物駆除に出ても、怪我など負うことはほとんどなかった。
「……失礼を」
リィラが手を取った。
妾の手を取り、レニャに向ける。
レニャが、腰の魔術杖を妾の手に翳した。
「……」
癒えていく。
レニャは治癒の魔法が使える。
そんなものなくとも、この程度の傷など何でもないじゃろうに。
「……」
違う。
妾はこのクジャの守護者として、常に凛としていなければならぬ。
掠り傷でも、見れば不安になる者もおるじゃろう。
傷は消えるが、心中の鬱屈したものは消えぬ。
クジャでは短い間しか訪れない夏の強い日差し。
目に刺さるほど眩いそれも、妾の心の曇りを晴らすことはなかった。
「……戻るぞ」
町を歩いていても仕方がない。
夏のクジャの町は、働く者の姿ばかりだ。
今のうちに多く働き、冬に備える為に。
氷雪に閉ざされる冬は、ほとんど活動が出来ない。
妾や一部の戦士は、冬に腹を減らして町に寄ってくる魔物を駆除する為に戦うが、一般の者は屋内で過ごす。
妾とそれらとは役割が違うとは言え、皆が働いている時に散策に興じているように見られるのは、やや収まりが悪いように思う。
紡紗廟の前まで戻ると、連中の連れていた魔物が見えた。
片方は雪鱗舞。
この北部にもいるが、臆病な気質で空を逃げるのじゃから、妾も近くで見たことはない。
晴れた冬の空に、キラキラと日を反射させるあの鱗は美しく見えることは知っておるが。
もう一体は、見たことがない。
大型の蜥蜴のようじゃが、この辺りでは見ない種類の魔物。
赤褐色の鱗に、雪鱗舞と違ってやや重厚な骨格を有している。
どちらも騎乗できるほどの大きさで、それほどの大きさの魔物を飼い馴らす者は見たことがない。
「……」
その魔物の周囲で笑う女たち。
苦渋の生涯を送ってきた彼女らは楽し気にしているが、妾には見える。
お互いに、お互いの傷痕に触れぬよう注意を払っている様子が。
あれらの先に幸せなどあるのか。
消せぬ痛みを抱えたまま過ごせば、いずれその歪みはまた傷口を広げるのではないか。
妾なら、奴隷として陰惨で醜悪な行為に身を晒され続けたのなら、死を選ぶじゃろう。
生きても幸せなどないと。
誇りを踏み躙られた女たちが笑う。
最初からあれらには誇りなどなかったと思えば不思議もない。
ほんの少し運が悪かっただけで、生きて逃げ延びたからもう安心じゃと。
誇りがなければ、そんな気持ちになれるものやもしれぬ。
下賤な連中。
同胞だとはいえ、やはり妾たちとは大きく違うものじゃ。
「……触ってみたいの?」
気が付けば、小娘が妾を見ていた。
魔物を眺めながら、いつのまにか近くまで来ている。
「わ、妾は、魔物などに興味はない」
「そうです。メメトハ様は魔物などに触れません」
「ふうん、そっか」
リィラが突き放すように言っても、女は聞いたようで聞いていないようで、無遠慮に妾を観察した。
短い黒髪で、部分だけ長く後ろに尻尾のように流している女。
確か、ミアデとか呼ばれていた。
「……別に噛みついたりしないけど」
「ふん、挑発しても無駄じゃ」
今日は既に挑発に乗って失敗をした。何度も繰り返すことはない。
いや、挑発したのは妾の方じゃったか。
「ありゃ、あたしもやってみたかったのに」
「舐めるでないぞ、小娘」
自分でも勝てると慢心したのか、愚かなことを言う。
妾が睨むと、ミアデは慌てた様子で両手を振った。
「あ、違う違う。あたしじゃ勝てないと思うけど、鍛錬にはちょうどいいかなって」
「ちょうどいいとは、また大きく出たものじゃな」
「あー、それも……どうなんだろ。ちょうどいいと思うんだけど」
今のクジャで最強の妾を、練習相手にちょうどいいとは言ってくれるものじゃ。
セサーカも止めようとはしない。
あれは妾の実力を肌身で知ったはずじゃが、止めない。
だとすれば、実際にちょうどいい、のか。
全く、不愉快な連中じゃ。
「……妾は忙しい。そなたらと遊んでいる暇などないのじゃ」
実力だけでいえば、この連中は確かに普通の戦士よりも頭抜けているのは事実。
幼い頃から戦士をやっていたわけでもないというのじゃから、その成長度合いは驚愕に値する。
西部の戦いの力になるという話もわからんでもない。
「忙しいって……」
半眼になるミアデじゃったが、リィラとレニャが眦を吊り上げて睨むと、口を噤んだ。
遊んでいるようにしか見えない、と思ったのじゃろう。事実、そんなものじゃが。
「メメトハ様がお前たちなどの相手をして下さるなど、思い上がるでない」
「そうです。メメトハ様は真白き清廊の守護者となるお方。本来ならお前たちが口を利くことも叶わぬのです」
幼い頃から、妾の傍仕えとして共に過ごしてきた少し年上のリィラとレニャ。
彼女らは妾の役目を知っている。
「真白き清廊……」
ミアデの視線がニアミカルムに向いた。
「そうです。清廊族の聖地です」
皆の瞳が、同じように南に聳える峰々を映す。
真夏の日差しの下、美しい陰影を織りなすニアミカルム山脈の連峰。
白く、眩しい。
「いい天気だね」
「……」
良い、天気?
「……なん、じゃと?」
どういうことじゃ。
妾の口から洩れた声は、震えていた。
ミアデが、きょとんとした顔で振り返る。
おかしなことを言ったかな、という表情で。
「だから、こんなにいい天気で、日差しが眩しいって……」
「バカな!」
「メメトハ様!」
有り得ない。
長老二名がこのクジャにいるのに、山頂が晴れ渡っているなど。
お役目の代理をしている時期ではない。
瞬間的に晴れたわけでもなく、そういえば今朝からずっと日差しは強かった。
有り得ない。こうして言われるまで疑問すら浮かばないほど。
長老たちもメメトハと同じく、考えもしていなかっただろう、。
「真なる清廊の魔法が、途絶えておる……」
いつも山脈に吹き上げる風と共に、行き交う者の存在を許さぬはずの雷雲が、どこにもない。
百年以上に亘り清廊族を守ってきた姉神の魔法。
永遠に続くと思っていたそれが消えたなど、妾にも、クジャに生きる誰にも、信じられようはずがなかった。
ニアミカルムは、静かで。
息を潜めた山々とは立ち代わり、数多の獰猛な息遣いが聞こえてくるように感じたのは、気のせいではなかった。
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