第二幕 024話 連峰、晴れて_1
紡紗廟。
ニアミカルム山脈にあるという真白き清廊を模して造られたという建物。
その奥には、白い石で囲われた大きめの水盆がある。
ちょっとした泉のような大きさの。
中心からは、山脈の地中深くから湧きだす水が溢れ、冬でも凍ることなくここから水が流れていく。
流れる水はクジャの町の生活用水となっていて、滞らぬように各所に魔石を使って水流を増幅させていた。
ルゥナ達が長老と話している間、エシュメノはこの辺りで待つように言われた。
ラッケルタ達が外で待っているので、水盆の近くにいるのはエシュメノの他にはニーレ、ユウラ、トワ。
「……冷たくて美味しい」
両手で掬って飲んでみると、真夏でもひんやりとした温度の澄んだ水だった。
ソーシャと共に山で暮らしている頃は、こんな水を飲むことが多かった。
まだそれほど昔のことではないのに、もうずいぶんと遠くのことに感じる。
「……」
はら、と。
一筋の涙が水盆に落ちた。
「エシュメノちゃん?」
動きの止まったエシュメノに、どうかしたのかとユウラが声を掛けてくる。
「ううん、なんでもない」
懐かしむには、まだ早すぎる。
涙するのも、まだ後にしよう。
ソーシャの仇を討ち、みんなが本当に心から穏やかに暮らせる日まで。
「なんかさぁ、ヤな感じだったよね」
気分を変えるようにユウラが話を振る。
「偉そうに澄ましちゃって、馬鹿にしてさ」
「実際に偉いんだろう」
「セサーカ姉さんがガツンとやってくれて気持ち良かったぁ」
ユウラの物言いにニーレが苦笑する。
エシュメノも思い返してみると、にんまりと笑いが浮かんできた。
意地悪なことを言ってきておいて、悔しそうな顔で去ったメメトハの姿を思い出せば、ちょっと気分が晴れる。
「……清い体って、なに?」
そういえば彼女に言われた言葉の意味がわからなかった。
ついでのように思い出して聞いてみると、それぞれが曖昧な表情で首をひねる。
「エシュメノは処女ですか?」
「ちょ、トワちゃん」
「処女ってなに?」
「そこからですか……」
トワもユウラも言葉に迷い、まとめてニーレに視線を集めた。
「あー、その……男を知らないというか」
「男? 知ってるけど」
「そういう意味じゃなくて。エシュメノ、子作りの仕方とか知ってる?」
馬鹿にしてる。口を尖らせて腰に手を当てた。
「交尾くらい知ってる。雪解けと一緒に枝の氷の粒から赤ちゃんが出来るだなんて思ってない」
「そっちの童話も知ってるんだ」
むしろそれが意外、とユウラが目を丸くした。
「ソーシャが教えてくれた。清廊族ではそう信じてる者もいるって」
「ふふっ、いるんですかね」
トワがおかしそうに笑う。
「エシュメノは、誰かと交尾したことがないんじゃないか?」
「うん」
「それが清い体ってことだよ。メメトハが言っていた意味は」
そういうことなら、確かにエシュメノはそれだ。清い体。
そもそも交尾するような同族が近くにいなかったし、発情期も来たことがない。
「交尾したことがあると、清くない体なの?」
変なの、と思う。
「生き物なんだから子作りは当たり前なのに。交尾したら清くないなんて変なの」
「……普通なら、そうだな」
「私らはほら、人間にそんなことされちゃってたから……」
人間を相手に、無理やり交尾されていたから。
だから、清くない。
「それも……変。なんか変だ」
エシュメノにはわからない。
ユウラたちは自らの意思でそんなことをしていたわけじゃない。
呪いの首輪や、暴力で、そうさせられていただけ。
汚れているのは、そんなことを強いていた人間どもの方だ。
彼女らが卑しい気持ちでそうしていたわけではないのに。
「エシュメノ、あいつら嫌い」
エシュメノは、清い体。
他の仲間は、汚い体だと言っていたんだとわかると、気持ちが落ち着かない。
「……エシュメノだけ違うのは、嫌だ」
「エシュメノ」
ニーレの手が、エシュメノの頭に乗せられた。
「ありがとう、エシュメノ。だけど私は良かったと思っているよ」
優しい微笑みだけれど、少し陰りもある。
「……なんで?」
酷い目に遭って、つらい思いをしたと聞いている。
何が良かったと言うのか、エシュメノにはわからない。
「エシュメノが、こんな私らと同じ目に遭わなくて良かったって」
「……」
「大丈夫。エシュメノの優しい気持ちで私らは助かっているから、大丈夫だ」
あんな女の言葉に傷つく必要はない。
心無い言葉に屈することはないのだと。
セサーカが意地を張って戦った経緯は、ニーレ達も聞いている。
全員の気持ちを代表してセサーカは勝利した。
過去は変えられないけれど、何も知らぬ者が仲間の過去を辱めるような言動は許せない、と。
エシュメノだけは事情が違う。
人間と接触することがなく、人間の悪意に触れてきていない。
「エシュメノは、そのままでいいんだ。それで私らは救われるから」
「……わかんない」
エシュメノには、ニーレ達がどういう気持ちでエシュメノを見ているのかわからない。
それが不安にもなる。
「エシュメノちゃん」
ユウラがエシュメノの手を取った。
目の前に来たユウラの瞳を見つめる。
ユウラの瞳の中にも、エシュメノが映っていた。
「私の手、汚いかな?」
「? ううん」
「薄汚い人間にいっぱい舐め回されたりしてたって聞いても?」
「その人間が汚いからって、ユウラが汚いことにならない」
当たり前のことをエシュメノが答えると、ユウラは笑って頷いた。
「ありがとう。でも、あの氷乙女ちゃんはそう思ってくれないんだよ」
「なんで?」
「私の体に、今でも人間の唾液が染みついているんだって」
体に染みついて?
嫌な記憶は、心には染みついてしまうかもしれない。
それを消し去ることはとても難しくて、出来ないかもしれないけれど。
だけど、肌についた汚れなら、洗えば落とせる。
うっかり踏んでしまった糞尿でも、べっとりとついた脂でも、洗えば落ちるのだから。
そんなこともわからないのだろうか。
「メメトハは、バカなんだ」
「ぶっ」
ユウラが噴き出した。
トワもくすくすと、ニーレも口元を押さえて小さく震えた。
「ええ、あの女は馬鹿ですね」
「そうだな」
そうとわかれば、馬鹿の言うことなのだから気にすることもない。
「エシュメノ、セサーカに教えてくる。メメトハはバカだって」
「勝手にどこかへ、ああ……」
たたっと外へと駆けていくエシュメノを、ニーレが追った。
よく知らない場所だ。迷子になられても困る。
残されたユウラは、追わない。
「トワちゃん」
ニーレの背中を見ながら、独白のように呟いた。
水盆から流れる水音。
「私、決めたよ」
一定のリズムで流れる水音と同じように、そこに迷いはない。
「そうですか」
「相談、聞いてくれてありがと」
「ユウラの悩みなら私の悩みと同じですから」
揺れる水面に映る二つの影は、揺れない。
意思を固めた。
「……手を貸してくれる?」
「ユウラが望むなら、もちろん」
手と手が重ねられる。
「欲しいんだ、やっぱり。どんなことをしても」
ユウラの瞳は真っ直ぐに、彼女の望みを映していた。
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