第二幕 012話 月明かりに差す影_2



 これまで生きて来た時間は、ずっとそんな風に過ごしてきた。

 苦痛と汚辱に塗れ、それをやり過ごして何でもないというように。

 そうやって生きて、そうやって死んで。

 それで満足だなんて言いたくない。


 やっとなのに。

 やっと、自分の意思で、自分の望む生き方が出来る場所に立ったのに。

 なのにどうして、何も得ることが出来ずに満足などと言えるのか。



「ルゥナ様」

「……」

「返事は?」

「……はい」


 怯える瞳と、震える唇。

 何を言えばいいのかわからず、どうすればいいのか迷っていて。

 しようのない女だ。

 いつも冷静で正しくあろうとするくせに、まるで正しくない。


「違いますよね?」

「……はい」

「トワに言うべき言葉は、何ですか?」


 導いてあげなければ。

 この迷える愛すべき彼女を、誰が導いてあげられるのか。



「……トワ、ありがとうございます。貴女のお陰で、助かりました……」


 よくできました。


「許してほしい、ですか?」

「はい……お願いです、トワ」


 吊られた甘い餌に、すぐに擦り寄ってしまって。

 本当に、浅ましい。

 人間と変わらないのではないか。



「本当に、許してほしいですか?」

「はい、トワ。私は――」

「ルゥナは、と言って下さい」


 正す。

 私への話し方から、まず。


「え、あ……ルゥナは、トワに、許してほしい……です」


 よくできました。

 可愛らしい。

 愚かで浅ましいのであれば、せめて可愛らしさは損なわないでもらわないと。


「トワは、ルゥナを許しません」


 でも、まだ足りない。

 私の心を殺した貴女には、全てを捧げてもらわなければ。



「そんな……お願いですから」

「お願いお願いと言いますけど」


 貪欲な人間のように、尽きることなく何度も。


「ルゥナ様、違うんじゃないですか?」


 要求できる立場ですか、と。


 私は貴女に殺された。

 谷底に、見捨てられ。

 そして今ここで、生きていることを否定されて。

 愛する貴女に。


「……私は」


 ぎり、と睨む。


「ルゥナは……トワを、愛しています」

「……」


 人間でも、これほど卑劣な嘘は言うまいに。

 おかしい。

 おかしくて、信じてしまいそう。


「愛しています、トワ……」

「ルゥナ」


 まだ許さない。

 まだ足りない。

 どこまでいっても、満たされることなどない。


「何でも、しますから……」

「違いますよね?」


 だから許せと、要求するな。

 そんな権利はもう貴女にはない。


「……口づけを、させて下さい」

「……」

「お願い、トワ。貴女に尽くしたい。貴女の喜ぶことを、何でもしたい」

「誰が?」

「わた……ルゥナは、トワの喜ぶことをさせてほしい、です。貴女に愛されたい……です」


 可愛らしい。

 少しは、わかってもらえただろうか。

 上辺だけでも言葉を並べて、気に入られようと。


「アヴィ様よりも、ですか?」

「っ……」


 唇が結ばれる。

 なるほど、そこはまだ崩せない。


「……嘘ですよ、ルゥナ様」


 引いた。

 手を引いた。

 そこの一手は早計だ。アヴィの存在はルゥナにとっては聖域――神域と言ってもいい。

 もし不用意に踏み込めば、今度は本当にルゥナの手で殺されることもあるかもしれない。


(それは……幸せ、ですね)


 そんな気持ちもあるけれど。

 今日は、今手に入れたもので良しとしよう。

 私は人間とは違う。

 手に入らないものを無闇に追い求めるほど愚かではない。


「……トワは、生きていてもいいですか?」

「お願いです、トワ。私の……ルゥナの為に、生きて下さい」


 偉いですよ、ルゥナ様。

 ちゃんと言いつけを守ろうとする姿は。


「トワは、ルゥナ様の何ですか?」

「……」


 ルゥナの表情が、困惑に歪む。

 不愉快だとか、恐怖だとか、そういうものとは違って見えて。



「?」


 なんだろう。

 ルゥナ様の頬を包む私の手が、熱を感じる。

 色のない月明かりの下で、ルゥナ様の頬に赤みが差して。


「あの……私にも、本当にわからない、のです、けど……」


 途切れ途切れに紡ぐ言葉は、たどたどしいくせに、やけにすんなりと耳に入ってくる。

 まるで真実であるかのように。


「とても身勝手で、恥ずべきことですが……アヴィとは別に、貴女を……トワを、愛おしく、思っています」

「っ……」


 まるで、真実であるかのように。

 戸惑いながら話す彼女の言葉は、取り繕う様子ではなく、ただ本当に恥じらいながら心の内を晒しているのかと。


「……嘘つき」

「そう、思われます、よね……今更」


 寂しそうに笑うルゥナ。


「事実です。信じてもらえないかもしれませんけれど」


 頬から手を離したら、今度はルゥナ様が私の頬に手を添えた。

 心から慈しむように。


「ミアデに言われました。わた……ルゥナはトワのことを好いているのか、と」

「……」

「その時は違うと、そう言いました。そう思っていました。特別に好いているのはアヴィのことだけだと」


 ルゥナの顔が寄せられる。

 目の前に迫り、そして首筋に流れた。

 息を吸われる。


「……トワの香りが好きです」


 清廊族の女性の香りは、花に例えられる。

 私の場合は、爽やかな花水木のようだと。


 ルゥナ様は鈴蘭に近い。

 ちょうど今の森のように、若葉のような清涼な雰囲気の中に微かな甘さを感じる。

 この香りが嫌いだと思う者はいないだろう。


「……軽蔑、しますか?」


 首下で囁かれた。


「アヴィを特別だと言いながら、トワのことも愛おしく思う私を……ルゥナのことを、軽蔑しますか?」


 二股だと。

 ルゥナ様は潔癖な性分らしい。


 清廊族の仲間の話を聞く限り、特定の伴侶とのみ添い遂げるという例は多数派ではないという。

 決まった誰かというパートナーだけと生きることを選ぶと、どこかで歪みが出てくるのだとか。

 着かず離れずという距離感の方が長続きする。そういう風潮が多いのだと村でも言っていた。


 人間の生活習慣の方を目にすることが長かったトワとすれば、そういう清廊族の生き方は今まで知らないことだったが。

 寿命が人間よりも長いことも、そうした習慣の違いに出ているのかもしれない。


「否定しようとしました。アヴィを裏切っている気がして……」


 そう言いながらも、私の体を離そうとしない。

 抱きしめて、貪るように香る。


「私は、貴女が怖かった」

「……」

「トワが、私の……ルゥナの心をどんどん占めていくのが、怖かった」

「もういいですよ、私、で」


 何度も言い直すものだから、いい加減かわいそうになってきた。


「こうして話してみるまで、自覚がなかったのです。貴女を愛しているのだと」

「……アヴィ様よりも?」


 もう一度、踏み込んでみた。

 彼女の、特別な領域に。


 今度は表情は固まらずに、やんわりと首を振る。


「よりも、ではありませんが……ですが、特別に。そう思っています」

「トワは、生きていても良かったですか?」

「トワ」


 彼女の手は、まだ血が流れている。

 傷ついた手を私の背中に回して、強く抱きしめた。


「貴女が、生きていて良かった」

「……」

「私を助けてくれた。ありがとう」

「……」

「愛しています。あの……」


 少しだけ体を離して、紅潮した顔でトワを見つめる。

 媚びるように。

 せがむように。


「……ルゥナのことを、嫌いにならないで……くれ、ますか?」


 恋する少女のように。


「……仕方のないルゥナ様、ですね」


 どこまでが本心で、どこからが演技なのだろうか。

 演技が得意なタイプではないと思うのだが。

 これで騙されるのなら、本当にもう仕方がない。

 元々、惚れたのはこちらの方なのだから。最初から負けているのはトワの方。


「トワは、ルゥナ様を愛しています。だから……もう、捨てないで下さい、ね」


 目を閉じて、唇をねだる。

 柔らかな温もりが重ねられた。




 密やかな関係。

 今はそれでもいい。

 今は。


 ルゥナの心の中に、トワの場所が出来た。

 ルゥナ自身が作ってくれた。


 アヴィよりも下と位置付けていたけれど、関係がない。

 その特別な席は、ルゥナがどう思ったとしても、アヴィと並ぶ特別な場所だ。

 今までその領域にアヴィ以外の誰かを並べたことはないはず。


 足がかりになる。

 ルゥナの心を占有する為の足がかりに。

 後は、邪魔な誰かをそこから消してしまえばいい。

 そうすれば、その聖域に残るのはトワだけ。


「……」


 トワだけでいい。

 もう善い子などという馬鹿げたことはやめた。気の迷いだ。

 欲しいものは手に入れ、好きな生き方を選ぶ。

 待っていても、良いことが向こうからやってくることなどない。


「……」


 一度だけ、あった。

 牧場で、ルゥナがトワを迎えに来てくれた。

 奇跡はあの一度だけだ。

 これからは、どんな道を選ぼうが、欲しいものを求めていく。


 善い子のトワはもう死んだ。

 殺された。

 誰に?

 わかっていますよね、ルゥナ様。


 だからこれからどんな結末が待っていても、全部。

 全部、ルゥナ様のせいで、それは全部トワが許してあげますから。


「許してさしあげますからね、ルゥナ様」

「ありがとう、トワ」


 いえいえ、どういたしまして。



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