第二幕 011話 月明かりに差す影_1



 ルゥナ様に呼び出された。

 宴の後に、ひっそりと。

 森の奥に進むルゥナ様の背中は、月明かりに照らされて幻想的な美しさだ。


 嬉しい。

 ご褒美をいただける。

 頑張った私へのご褒美を。


 随分と集落から離れてしまうが、もしかしたら――

 期待しても、いいのだろうか。

 誰にも聞かれたくないから、とても遠くに?


 イケナイことを期待して胸が高鳴る。

 ルゥナ様もきっと後ろめたい気持ちがあるから、皆から離れたいのだ。


 わかっている。

 アヴィ様には内緒。

 内緒で、密かな関係を。



「あの……あまり離れすぎると、迷うかと」

「あ」


 いい加減、大声を上げても届かないほどの距離だろうに、ルゥナ様の足が止まらなかった。

 よほど用心しているのか。

 よほど、いけないことを考えてしまっているのかも。


 いったいトワはどんなことになっちゃうんでしょうか。想像するだけでどうにかなっちゃいそうです。



「すみません」


 立ち止り、振り向いたルゥナ様の目線が泳ぐ。

 後ろめたい。そういう目だ。

 私の後ろから降り注ぐ月明かりが、そのルゥナの表情を照らし出す。


「……お話を、しておきたかったものですから。トワ」

「はい」


 そんな前置きはしなくてもいいのに。

 貴女のトワは、貴女の欲求になら何でもお応えしますのに。


 ああでも、だめだめ。

 ルゥナ様は素直ではないから、自分から私をどうしたいとか言うはずがない。

 前と同じ。

 トワが、ルゥナ様に我侭を言ってお願いをしなければ。



「……皆には、内密にしていただきたいのです」


 妙なことを言われた。

 いや、当たり前のことだといえばそうだけれど。


「? もちろんです、けど」


 言いふらすような軽い子だと思われている?

 秘密の睦事を、誰彼と。

 

 話したくないかと聞かれたら、話したい。自慢したい。

 ルゥナ様のあられもない姿を私がどうしたのか、私の為にルゥナ様が何をして下さったのか。

 甘い時間を。


 私の中だけで独り占めしたいという気持ちと共に、その優越を誰かに知らせたいとも思うのも事実。


 だけど、そんなに馬鹿じゃない。つもり。

 知られたら、失ってしまうかもしれないのだから。


 私にとってはたったひとつの特別。

 だけど、ルゥナ様にとっては浮気心。

 それくらいのけじめはわかっている。今はそれでも我慢できる。

 トワは素直な善い子になったのだから。




「……本当に、申し訳ありませんでした」


 深く、頭が下げられた。

 ルゥナ様の頭が、深く。その目は私を見ることがなく、地面へと。



「え……?」



「どんなに貴女に怒られても仕方がない。恨んで当然だと、わかっています。ですが」

「……」

「どうか……どうか、許して下さい。私を……」


 顔を上げることはなく、いっそ地面にまで額を擦りつけようかというほどの姿勢で。


「私を……許せなくても、構いません。ですがどうか……皆の為に、誰にも……言わないで……」


 何を?


「……何を、です?」


 意味がわからない。

 ご褒美をいただけるのでは、なかった?

 感謝の気持ちを、お褒めの言葉と、甘い時間を。



「……ルゥナ様。何をおっしゃっているんです?」


 声に、感情が乗らない。

 初夏でも、この辺りの月明かりは冷たい。

 静かで、透き通っていて、色を感じさせない。


 恐る恐るといった風に、ルゥナ様の視線が上がる。

 その頬には涙の筋が。



「私が……」


 眉が寄せられ、それ以上の涙が溢れるのを堪えながら。


「あの時、手を……引いたことを……言わないで……」



「……」



 嘘だ。

 嘘だ。

 そんなこと、嘘に決まっている。

 嘘だって知っている。


 私は見ていた。

 ルゥナ様は、あの時――


「……」


 私の顔を見るルゥナ様の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。

 嘘では、ない?


「あ……」


 違う。

 やはり嘘だ。間違っている。


 あの時のルゥナ様は、自分の身の危険も構わずに手を差し出していた。

 身を投げ出していた。

 私は見ていた。


 なのに、ルゥナ様の記憶は違っている。

 自分が私を見捨てたと、そう思い込んでいる。

 どうして?


 ――どうして?


 生真面目なルゥナ様。

 私を犠牲にしそうになったことで、自分を責めてそう思い込んでいるのかも。


「……」


 私を見るルゥナ様の瞳から零れる涙は、怯えだ。

 怯えている。

 そうだった。

 あの時、ルゥナ様は怯えていた。



 私は助かったのに・・・・・・・・、ルゥナ様はひどく怯えて――



「……トワが、助かった……から・・?」



 ルゥナ様の唇が震えた。

 それが答え、か。


 私が、助かったから。

 私が生きて、生き延びたから。

 だから、ルゥナ様は怯えて……




「死にます」


 森に入るのだからと、危険を考慮して持ってきてよかった。

 包丁。

 別に特別な物でもないけれど、これで喉を突けば死ねる。


「トワ!」

「死にます!」

「駄目です!」

「止めないで!」

「やめて!」


 もみ合う。

 喉を突こうとした私の手を、彼女が必死で止める。

 力は彼女の方が強いけれど、だからといって止まることはない。

 自分の喉を突く。


「っ!」


 包丁の刃が、彼女の手を深く滑った。

 痛みに顔を歪める。

 綺麗な、大好きな顔が、痛みで歪む。


「あ……」


 大好きな彼女を傷つけてしまった。

 最愛の、ルゥナ様を。


 だふ、と。土に包丁が落ちる。


「ルゥナ様……?」

「お願いです、トワ……お願いですから、どうか許して……許して下さい」


 傷ついた手で、頬を撫でられた。



「……何を、許したら……?」


 いいんですか?

 何を、許せば?


 生きていることで貴女を苛んでいる私の存在は、どうしたら許されるのですか?


「……ルゥナ、様?」

「……」


 泣きながら私を見つめるその顔は、月明かりに照らされてひどく美しい。



「ルゥナ様は、私の……トワの死を、願われたのですよね」


 私の生存は、貴女の希望にそぐわなかった。


「それなら、トワは死にます。トワはルゥナ様が望まれるのなら、いつでも死にます」

「違う……違うの、トワ」


「違いません!」


 夜の森に、怒声が響いた。

 びくりと身を縮めるルゥナ様。

 怯えて、竦んで。



「……違いませんよ、ルゥナ様」


 今度は、静かに。

 今度は、私の方からその震える頬に手を伸ばした。


「愛する貴女に、死を願われたんです」

「……」

「ね」


 両頬を両手で包んで、その視線をこちらに向けさせる。


 逃がさない。


「想像してみて下さい。最愛の誰かに、自分の死を願われたと」

「あ……あ、あ……」


 涙で揺れる紅い瞳が、恐怖に耐えかねて伏せられた。



「目を閉じるな!」


 びくぅっと震えて、再び開かれた。



 逃がさない。


「……ね、想像してみて下さい。ルゥナ様」


 いじめているわけではない。

 訊ねているだけ。


「貴女も、トワと同じように思いませんか?」


 一緒でしょ、と。



「あ……ごめ、ごめんな、さい……許して……」

「違いますよ、ルゥナ様。許してほしいのはトワの方です」


 生き延びてしまって、ごめんなさい。

 貴女の心をひどく乱してしまって、ごめんなさい。


「だから、ね。死ぬしかないじゃないですか」

「ち、ちが……」

「トワは、ルゥナ様を愛しているんですから」

「やめて……」


 小刻みに首を振る彼女と、ゆっくり首を振る私と。

 同じように横に振っているのに、向かう方向はまるで違う。



「トワは、期待しちゃっていたんですよ。ルゥナ様」


 死ぬ前になら、伝えてもいいだろう。

 恥ずかしい勘違いを。


「こうして呼び出してもらって、トワはですね。喜んでいたんですよ」

「……」

「ルゥナ様に褒めていただける、って。きっといろんなお願い事を聞いていただけるんだって」


 嗤う。

 自分の滑稽な勘違いを、鼻で嗤う。


「トワ、ありがとう。トワがいてくれて助かりました。トワ……愛しています、って」

「……」

「馬鹿でしょう。おかしいですよね、トワったら本当に……」

「トワ――」


「違うじゃないですか!」


 頬を包み、顔を寄せたまま叫ぶ。

 言いかけたルゥナ様の言葉は、きっと甘い囁きに続くのだろうと。

 名前を呼ばれただけでも嬉しくなってしまうのに、そんな囁きを聞かされたら。


「また、勘違いしちゃうじゃないですか……」


 涙が溢れる。


「ひどい、ですよ……ひどいです、ルゥナ様……こんなの、あんまりです……」


 褒めてもらえると思ったのに。

 喜んでもらえると、そう思ったのに。


 なのに、真実はまるで違っていて。

 貴女は私が生きていることを、疎んでいて。


「だから……死にます」

「トワ」

「貴女に望まれないトワならいらない。ルゥナ様がそれで安らぐのなら、トワはそれで――」



 本当に、それで満足だろうか。

 聞き分けよく、お行儀よく、犠牲となって。


 それで、いいのだろうか。

 本当にトワは、それで――



  ※   ※   ※ 

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