第二幕 007話 心地好い寝台



 ノエミと名乗った女密偵は、特に逆らう様子はなかった。


「その……てっきり、御存じの上でお話をされているのかと思いました」


 イリアに組み伏せられても動じず、勘違いだったと話すのだが。


「……あの、私……女の方は初めてなので、どうしたらいいか教えて下さい」


 頬を赤らめて熱い吐息を漏らすのは、イリアが体をまさぐっているからだ。

 服の中に手を這わせて、起伏のある胸の隙間や脇を。

 スカートから手を入れて内股と臀部に手を回して、見つけた。


「小刀、ね」

「必要な場合もあるものですから」

「これでマルセナを?」

「そんなつもりは毛頭ありません。隷従の呪術もありますし、そうでなくとも」

「はっ」


 もちろん呪術で隷属させているのだからマルセナに害意などなかっただろうが、その言葉がイリアの癇に障る。

 さっきまでのクロエのことで気分が悪いのに、ここでまたマルセナに取り入ろうとする女の言葉など反吐が出る。



「イリアさん、手荒なことをすべきではありません」

「……」


 その言葉が間違っているとは思わないが、口を挟んだクロエを横目で睨んだ。

 苛立っているのは誰のせいだと。


「そういうのは後にしましょう、イリア」

「……わかった。だけど、マルセナに妙なことをしたら殺す」


 マルセナに言われて、ノエミを解放した。

 立ち上がりつつ乱れた服を直して、改めてマルセナの前に膝を着く。



「マステスの軍部に所属する密偵のノエミと申します。今はマルセナ様にお仕えしたいと思っております」

「どうしてそう思われるのかしら?」

「その方が楽しそうだから、です」


 悪びれもせずにそう言って、マルセナに手を伸ばした。

 マルセナが手を差し出すと、その手を取って額に当てる。


「私の母は罪人でした」

「そう」

「私は、生かされる代わりに、マステスの密偵になりました。幼い頃からそのように教育を受けて、上の言うなりに」


 マルセナの手を取り、まるで罪を告解するように言葉を吐く。


「呪枷がなくとも、私は奴隷でした。生きる意味など考えたこともなかった」

「……」

「マルセナ様もイリア様もお美しい。自分の意思で誰かに従うのなら、美しい方にお仕えしたいと思うのはおかしいでしょうか?」


 イリアも名前を出されて、少し居心地が悪い。



「お姿もですが、なんと言ったらいいのか……その、こんなことをしてしまう自由さと、それを可能にするお力に。憧れました」

「そう……」

「男どもの言いなりになって、男の勝手に振り回されてきた自分を変えたいと。偽らざる気持ちです」

「なぜ今までわたくしに言わなかったのでしょう?」

「機会がなかったことと、その……」


 顔を斜め下に向けて、言葉が途絶えた。

 言いにくいことがあるということだ。


「隠さず、本心を話しなさい」

「私も、マルセナ様とイリア様の間に混ぜていただきたくて、恥ずかしくて……」


 この女も、マルセナの体目当てか。

 クロエといい、どいつもこいつも。



「仕事とはいえ幾多の男と枕を並べてきた私が、そんなことを言えるはずもないと。密偵であることはいずれお話しするつもりでしたが、あの……」

「わかります、ノエミ」


 俯いて小声になっていくノエミに、寄り添ってその肩を抱くクロエ。


「マルセナ様にお仕えしたいという気持ちも。下らぬ男に身を任せてきた過去への負い目も。私にはわかりますから」

「クロエ様……」


 見つめ合う二人に、マルセナの眼差しがどこか優しい。



 イリアにも、その気持ちはわかる。

 下らぬ男に身を委ねたという苦い記憶や、マルセナに尽くしたいという強い気持ち。

 共感してしまえば、拒絶しにくい。


「事情はわかりましたわ、ノエミ」


 使える手駒に成り得る女で、その動機も理解できた。

 どちらにしても隷従の呪術で逆らえるわけでもないのだが。


「そのマステスの使者とやらをどうするのがいいか。知恵を貸していただけるかしら」

「お役に立てるのなら、喜んで」



 イリアは思う。

 誰もが、マルセナを知れば臣従したいと感じて当然だと。

 だがその度に、イリアだけが傍にいた時よりもマルセナが離れてしまうことが寂しい。


 あの山小屋でずっと二人だけで過ごせればよかった。

 立派な寝台も柔らかなクッションもなかったが、あの時間は至福だった。


「イリアも、ここの葡萄酒はお好きでしょう?」

「……私が好きなのはマルセナだけ」

「本当にイリアったら、もう」


 過去を欲しがっても仕方がない。

 今は、こんな風に笑うマルセナを見られるのだから、その幸せを甘受しよう。




 いくつかのシナリオと、詳細は調査中という話をまとめて、クロエとノエミは出て行った。

 マルセナ達が表に出る必要はない。


「……」


 久しぶりに、二人きりになれた気がする。

 クロエたちの話がどうなるのかわからないが、それほど早く戻ることはないだろう。


「っ!」


 思い切って、マルセナに襲い掛かった。

 危害を加えようというのではない。その意思であれば制約はかからないのだと知っている。

 抱きしめ、寝台に押し倒す。



「……怒らないの?」


 まるで抵抗する素振りを見せないマルセナに、恐る恐る聞いてみた。


「あら、怒られたかったのですか?」


 からかうように訊ねられ、目を伏せる。

 マルセナの目から逃れるように、顔をマルセナの胸に擦りつけた。

 イリアよりも柔らかい。


「違うけど……」


 寝台に倒したマルセナの体に顔を押し当てて、深く呼吸する。

 微かな甘い匂い。

 それはマルセナがいつも寝ている寝台にも染みついているけれど、直接鼻孔をくすぐる甘さはまた別だ。


「我慢できない頃かと思っていましたから」

「……ごめんなさい」


 二人だけの時だと甘い。クロエがいなければ。

 そう見切ってのことだったのだが、やはり罪悪感はある。

 マルセナの気持ちを無視して、強引にその体を貪ろうなどと。


「別に謝らなくても構いませんわ。イリア」


 首筋に頬を当てて息を吸い込むと、くすぐったそうに笑う。

 機嫌は悪くない。


「貴女はわたくしの特別、でしょう」

「マルセナは私の特別なの。一番なの。一番に愛してほしい」


 クロエのせいで溜まっていた鬱憤を含めて、身勝手な我侭を囁いた。



 小柄な体を抱きしめる。

 わずかに軋む音を立てる寝台と、外から聞こえる虫の声。


「わたくしなりに、愛しているつもりですけど」

「……うん」

「ここは居心地が良いですし、この寝台は広くて一緒に寝るのも不自由ないでしょう」

「……クロエも、いるから」

「狭いですか?」


 そうではない。

 三人でいても不自由ないくらいの広さはあるけれど。

 口を尖らせて非難めいた目を向けたイリアに、マルセナがくすくすと笑った。


「イリアのそういう顔、わたくし好きですの」

「……」


 好きと言われれば、少し頬が緩んでしまう。

 マルセナが好きなら仕方がない。



「野宿や、町の粗末な寝台だと、イリアったらわたくしを庇うでしょう」


 当たり前だ。

 ごつごつした石や出っ張った木でマルセナの体に痛みが残ったりしたら許せない。


「イリアの体はわたくしの物。で、よろしかったかしら?」

「うん、そうだよ。全部マルセナの物」


 よろしいも何も、そう言ってもらえたら嬉しさでたまらない。


「わたくしのイリアの体に、起きたら痣が残っているのは、あまり好きではありませんわ」


 イリアの為だった。


 マルセナがこの屋敷で暮らすことに執着を見せているのは、イリアの為だ。

 冒険者として体を鍛えていても、寝ている間ずっとどこかの血流が悪くなっていれば、いくらか痕が残る。

 それを厭って、この上等な寝台での生活を続けたいと。

 意外なこだわりだったが、それもマルセナらしいか。



「マルセナ……私、あの……」

「なにかしら?」

「……キスしても、いい?」


 嬉しさが込み上げてきて、せがむ。

 口づけの許可を求めると、マルセナは小さく首を振った。


「唇以外なら、お好きに」


 どうして唇は許してもらえないのか。


「……唇は?」

「全部ダメがよろしいかしら?」


 慌てて首を振って、許可を得た全てを、イリアの好きなようにする。

 マルセナは、許可したことについては拒絶することなく、クロエたちが戻ってくるまでイリアは甘い時間を得ることができた。



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