第二幕 006話 コクスウェルの密偵_2



「……失礼いたします」


 彼女にとっては、部屋の中の光景は予想できたものだったのか、あまり動揺は見せない。


「マステスの港から使者が来ています。この後、ピュロケス様が応対されますが」

「そう。クロエ、続けなさい」

「は、い……んんっ」


 クロエの体が強く震えて、首まで花が色づくように桃色に染まった。


 女官はその様子を目にして、さすがに目を伏せる。

 その顔が赤らむのも無理はない。

 逆に、同じ光景を見ていたイリアの顔は暗くなっていたが。



「ん……ぁ……」


 クロエの体から力が抜けると、マルセナは満足したように足を抜いて立ち上がった。


 イリアの手からも、マルセナの足が逃げてしまう。

 そのまま女官の傍まで歩いていって、何も言わずにすぐ近くに立つ。

 女官はその場で手を着き、絨毯の上のマルセナの右足に口づけをした。

 命じられるまでもなく。


(私がするのに)


 マルセナの身を清められるなら何だって構わないのに、イリアにさせない為に逃げられてしまった。

 ずるい。ずるいずるい。


「港町からの使者……事情の説明を、ということですわね」

「諜報員も来ているかもしれない」


 少しでもマルセナの役に立ちたくてイリアが声を掛けると、マルセナは首を傾げて振り返った。


「そういうものなのですか?」

「同じ国でも、隣町の領主の失脚材料なら役に立つかもしれないから。普段から諜報員がいても不思議はないと思う」



 味方であると同時に敵にも成り得る。

 足を引っ張る材料は、使わなくても持っておいた方が安心できるものだ。

 むしろそこは同じ陣営だからこそ。


「面倒なものですわね、人間というのは」


 イリアはマルセナの生まれを知らない。

 振る舞いから上流階級の家柄のようにも思ったが、冒険者などをやっていたのだからそんなはずもないのか。


「一緒に来ていると思いますか?」

「来ているなら、先行して町に入っていると思うけれど」


 馬鹿正直に同行してくるということもないだろう。

 供の中にもその手の人間がいるかもしれないが、それとは別に。



「元々、このトゴールトに協力員がいるはず。町にいるかもしれないし、この屋敷にいたのかもしれないけど」

「クロエ、何かご存じないかしら?」


 くたりと力を失って荒い呼吸のまま座り込んでいたクロエが、マルセナの質問に顔を上げて、横に振る。


「すみません、私は……そういうことは、わかりません」

「知られるようであれば諜報員としては失格なのでしょう。責めたりはしませんわ」


 それとも、とマルセナが思いついたように笑った。


「責めてほしい、でしょうか?」

「……マルセナ様からいただけるのであれば、喜んで」


 そう答える気持ちはイリアにもわかる。

 うっとりと答えるクロエと、恨めし気なイリア。

 ここのところ、ご褒美をもらえるのはクロエばかりだ。

 イリアだってマルセナに尽くしたいのに、クロエを贔屓している。


(マルセナ……私より、クロエを……)


 不安な気持ちが拭いきれない。

 イリアの想いを知ってか知らずか、マルセナは思案顔で呟いた。



「正面から戦うということになるなら、もう少し時間がほしいところでしたが」


 自分の足の汚れを舐めて清める女官に目をやって、小さく肩を竦める。


「隠し立てしても状況が知られてしまうのであれば、その使者を監禁するかどうにかしてしまった方がいいのでしょうか」

「隷従させるのではいけませんか?」

「それも出来ますが、マステスに戻らせてどうさせたらいいのか。不審な様子から看破されてしまうと、余計に面倒になるかもしれませんし」



 トゴールトは先日の混乱からまだ復旧も半ば未満だ。

 他勢力と正面から戦うとなれば、準備の時間が必要。

 ここに仕掛けた時とは違い、マルセナは勝つ為の算段をしている。


 パシレオス将軍との戦いは運が味方して何とかなったが、あれで少し反省したらしい。

 考えなしに戦うのは危険だと。

 そして、負けるのは面白くないと。


 冒険者として、一個人としてのマルセナの力は大きいとわかったが、まとまった人間と戦うには相応の準備も必要になる。

 今は少し時間がほしいと、そういうことだったが。



「私が、マルセナ様のお役に立てるなら、何か……」

「クロエもそういう搦め手には強くないのでしょう?」

「……」


 役に立てないと口を閉ざすクロエに、少しだけイリアの気分が明るくなった。


 だが、クロエの力不足を喜んでいても仕方がない。

 戦力が整わない中、もしマステスの町から討伐部隊などが来るような事態になれば、マルセナを守らなければならない。


 勇者級や、それ以上の戦力を送り込まれる可能性もある。

 どうにもならなければ、別にこのトゴールトにこだわることはないのだから、マルセナを連れてレカンやエトセンに逃げてもいいか。



「ここの葡萄酒、割と気に入っているのですけれど」


 ニアミカルム山脈から流れてくる水源に、穀倉地と果樹園が広がるトゴールト地域。

 その葡萄酒が好みに合ったらしい。

 確かによく口にしていた。口の端からわざと零して、それをクロエに舐めとらせていたり。

 どうせならイリアに注いで、啜ってほしい。



「それらしい理由をつけて突き返してみましょうか。変に隠し立てするよりも、協議が必要だとかそういう理由で時間を稼げるかもしれません」


 意識を飛ばして少しぼうっとしていたクロエが、頭を復調させての提案。

 トゴールトの混乱についてうまく隠蔽が出来ないのであれば、適当なシナリオを作って使者を返す。

 それに対してのまた説明をとなれば、いくらか時間が稼げるだろう。


 ただ、諜報員からの報告と辻褄が合わなければ、やはり反逆者として討伐隊をということになるかもしれないが。



「あの……」


 それまでマルセナの足を清めていた女官が、手を絨毯に着いたままの姿勢で顔を上げて声を上げた。

 何か言いたげに。


「どうかしたかしら?」


 指を着いた姿勢でマルセナを見上げる姿は、ただ呪術で従わされているという様子ではない。

 女神を崇めるように、陶然とした瞳に映るマルセナの姿が揺れている。


 混乱の中で命を繋いだ女。

 領主の屋敷に勤めながら、戦いの中で身を潜めて。

 その女が、顔を上げてマルセナに告げた。


「諜報……その密偵が、私です」


 彼女の名はノエミと言った。



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