第一幕 115話 木霊する清声



「我を失い迷惑をかけました。心配をさせてしまい申し訳ありません」


 恥を承知で頭を下げる。

 ひどい失態で、醜態を晒した。

 場合によっては命の危険もあったのだ。詫びて済むことではない。




「いい。エシュメノはルゥナがずっと頑張ってたって知ってる」


 頭を下げるルゥナに、真っ先にエシュメノが言葉を返した。


「ルゥナ様がいなかったら、今でも人間の奴隷だったはずですから」


 ネネランが続けて言っている間に、エシュメノがルゥナに寄って抱擁した。


「エシュメノはルゥナ好き」

「ネネランは? エシュメノ様、ネネランも好きですか?」


 迫るネネランに、さっさと逃げていくエシュメノ。



「ルゥナ様は色々と背負いすぎです。私は、頼りないかもしれないですけど」

「……いえ、セサーカ。ミアデも、とても頼っています」


 昨夜はミアデに元気づけられた。ミアデの気質は誰かを元気にしてくれる。

 肌の温もりも、弱ったルゥナには心地よかった。ミアデは体温が高い。

 セサーカはそれを知っているから、ルゥナの所に送ったのだろう。


 アヴィ自身に、アヴィ以外への口づけを許された。

 ほんの少しだけでも罪悪感が薄れる。正直に言えば、かなり楽になった。


「頼りにしています、セサーカ。これからも頼ってもいいですか?」

「喜んで」




「ルゥナ様がいないと、私らはどうしていいかわからないんだ」

「ニーレ」


 皮肉気な笑顔を浮かべるニーレに、ルゥナも苦笑を返した。


「私らは特に、牧場以外のことを知らないから」


 その後ろにユウラとトワもいる。


「ほんとに、なんにもわかんないもんね」

「どうやって生きていけばいいのかも、わかりません」


「いえ……私も、わかりませんよ。どうすればいいのか」


 トワがいたので、ついそんな答えを返してしまった。

 よくない。

 指針を示すべき立場で、こんなことを言うのはよくない。

 皆が迷い、不安になる。



(トワには……トワのことはどうすればいいのか、まだわからないですが)


 微笑を浮かべる彼女に、どうしても表情が硬くなってしまう。

 トワがどう思い、何を考えているのかがわからない。

 だがこの場でトワへの複雑な感情を吐露するわけにもいかない。


「みんな、ありがとう」


 今は、またここから進まなければならいのだから。




「ウヤルカ、でしたね」


 改めて、この断崖を越えて出会った最初の清廊族と相対する。

 やや身長が高く、少し見上げるようになってしまう。


 よく晴れた初夏の朝。

 大断崖の北は広々とした青空に、透き通るような空気がゆっくりと流れている。

 山小屋から西に見える山脈の雄大な景色を背中に、ウヤルカはからりと笑った。


「ルゥナ、やっぱしぶちかわええなぁ」


 彼女にとってはそれが一番大事なことなのかもしれない。



「貴女がいなければ仲間を失うところでした。本当にありがとうございます」


 お世辞なのか判断しにくい軽口は無視して、今更だけれど感謝を伝えた。


「そがなこと気にせんでええ。礼って言うならウチと……」

「だめよ」


 ウヤルカが言い終わる前にアヴィが口を挟む。

 何となく話は聞いていたけれど、本当に女好きで手が早いのだろうか。


「アヴィ、そんなに心配しなくても、ただの冗談ですから」


 ルゥナの見かけは、別に謙遜するつもりはないが、アヴィのように際立って美しいわけでも、トワのように可憐なわけでもない。

 経緯があってアヴィとは特別な関係を結べているが、清廊族としては平均的な、少し地味なくらいの容姿だと自覚している。



「……」


 ルゥナを見るアヴィの目が細められ、ウヤルカが苦笑いを浮かべた。


「まいたんび、こがなんゆう?」

「ええ、そうね」

「どういう意味です?」


 彼女の訛りが強く意味がわからないが、アヴィには理解できたらしい。

 尋ねてみたが、もういいという態度でアヴィが背を向けると、ウヤルカも肩を竦めた。


 とりあえずその話はいいだろう。



「差し当って、近くの村に行きたいのです」

「セサーカから聞いとるけぇ、わかっとるよ。連れてっちゃるけん」


 この辺りの地理がわからないルゥナ達とすれば、ウヤルカと出会えたことは幸いだった。

 人間の手は及ばないので危険は減ったが、道案内がいるかいないかで大きく労力も時間も変わる。


「出来れば、戦えない彼らのことを預かってもらえればとも思っていますが」


 妊婦も子供も、いつまでも連れ回すわけにもいかない。

 特に妊婦は、ここまでの行程で胎児が無事でいることが幸運すぎるくらいだ。

 あまり長旅になるようなら、いっそこの山小屋で暮らせるようにしたいくらいに。


「まあ村までは半日ってとこじゃけ、夕方には着く。後の話はそれからじゃの」


 細かい話は村の方でということで、出発することになったのだが。


「迷惑をかけていてすみませんが、もうひとつ」



  ※   ※   ※ 



 ルゥナの我侭に、仲間たちが付き合ってくれた。

 危険は少ないだろうということで、山小屋に戦えない者を残して、もう一度。



「……」


 崖の上から、南を見渡す。

 崖を挟んだ南側は、初夏の若葉により織りなされる緑の濃淡が、大地を美しく染めていた。

 風が抜けると、緑の草木が見えない手で撫でられるように揺れていく。


 野生の翔翼馬と思われる一群が野原を駆け、空へと舞い上がっていった。

 このアウロワルリスの北から見れば、足元よりまだずっと下の方だけれども。

 ルゥナ達が逃げてきた大地。



 時代が違えば、そこも清廊族が生きる場所だった。

 エシュメノやネネランの家族や仲間が、そこにいたのかもしれない。



「……取り戻します」



 人間の手から逃れた。

 これでもう当分は心配がいらない。

 そんな気持ちに落ち着いてしまわないかと不安があった。


(アヴィと一緒に、穏やかに暮らしたい)


 そう思う気持ちはどこかにある。


 ルゥナがそうなのだから、他の仲間にもそんな気持ちがあっても仕方がない。

 どうしてもと言うのであれば、無理に戦わせることも出来ないだろう。


 そう思う中で、もう一度見ておきたかった。

 奪われたものを。


 仲間たちがそんなルゥナの我侭に付き合ってくれたのは、それぞれ理由があるのだろう。

 自分たちも、この景色を目に焼き付けておきたかったのか。

 進んできた道を振り返りたかったのか。

 ルゥナがここから身を投げるかもしれないと心配されたのかもしれない。



 エシュメノが一歩進み出て、断崖の際に立った。

 握り締めたエシュメノの手が、その顔を拭う。背中越しで何を拭ったのかまでは見えない。


「すぅぅ」


 小さな体に、大きく息を吸い込んだ。



「ソーーシャァァーーー!」



 南の大地に、アウロワルリスに、そして連なるニアミカルムの山々に。

 全てに響き渡るように、勇ましさの中に寂しさを滲ませた清声すずごえが木霊する。


「生きてるから! エシュメノ生きてるから!」


 ソーシャの最後の言葉だった。生きてくれと。

 その想いに応えて、共に駆けた大地に向かって叫ぶ。


「絶対に帰る! だから……だから……」


 エシュメノの言葉が詰まる。

 その背中を見るルゥナの視界が、涙で歪んだ。


「……」


 強く拳を握り締め、唇を結ぶ。

 エシュメノの想いは、全員の想いだ。


「……ありがとう……ありがとぉ! ソーシャぁぁ……」



 拙い言葉。

 だけれども、その心を伝えるには十分だった。


 終わりではない。

 ここで終わりではない。


 ルゥナ達の心には確かに届いた。

 ニアミカルムの山々に響くその声は、きっと届いただろう。

 雄大な山々に木霊するエシュメノの声は、その想いを天まで伝えたはずだから。



               第一幕 完

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