第一幕 110話 やみ、晴れて_1
ウヤルカの住まいは断崖から少し離れた山際にあった。
丸太小屋が六軒。
なぜこんなにあるのかとセサーカが訊ねていた。
ずっと前には、人間を監視する為にもっと多くの見張り役がいたのだと。
百年くらい昔に、断崖の下まで迫ったという人間に対して脅威を感じて、近くの集落の清廊族がここに見張り小屋を作った。
大断崖アウロワルリスを越えてくるかもしれない。
それが杞憂だと判断されるまでにいくらかの年月が必要で、今ではほとんど無用の長物になっている。
ウヤルカ以外にも見張りがいたことはあるらしい。
とりあえず使っていない小屋を簡単に掃除して、休めるようにした。
まだ精神が不安定な様子のルゥナはアヴィと。
他の者も、それぞれ片付けた小屋で休息を取っている。
「ルゥナ様、大丈夫かな?」
一応、夜の見張りということで、順番に警戒することにした。
ウヤルカには心配しすぎだと笑われたが、これまでの旅路の慣習で見張っていないと落ち着かない。
今はユウラと一緒にトワが小屋の外で見張り役をやっている。
「ずっと張りつめていたからってニーレが言っていましたけど」
「そうだけど……あんな、子供みたいに泣くなんてびっくりしたよ」
ユウラは意外そうに言いながら、焚火に小枝を放り込んだ。
ぱちりと、火の中ではぜる音が鳴る。
火を焚かなくても月明かりでも十分見えるし、寒さもさほどの問題ではない。
だけど、やはり暖かい方がいい。
「そうですね」
ユウラの言葉に応じるが、トワとすればさほど不思議には思っていなかった。
トワは知っている。ルゥナの態度は強がりなのだと。
本当はもっと幼く、寂しがり屋な性格だと知っている。
「私は、少し嬉しいですよ」
ぽつりと、つい本音を口にしてしまった。
相手がユウラだったから、つい。
「嬉しい?」
「……だって、そうじゃないですか」
言ってしまったからには、半端に誤魔化すのも難しい。
相手は生まれた時からの付き合いのユウラなのだから。
「ルゥナ様があんなに取り乱したのは、私のことなので」
「ああ」
にやっと笑うユウラに、くすりと笑いを返す。
「トワちゃんを助けられなかったって、あんなに泣いちゃうんだもんね」
「それなら私に縋ってくれても良かったのに、とも思うんですけど」
大好きなルゥナが泣いている理由が、自分に関わること。
助けられなかったと嘆く。
実際には、白い蛇のような魔物に助けられて、その報酬のようにかっこいい系の女に好き放題にされたけれど。
ルゥナの泣き叫ぶ姿はともかく、自分が生きているという事実が不思議で、つい見知らぬ女に体をまさぐられるのを放置してしまった。
生きているのが不思議だった。
死を覚悟した。
いや、死を受け入れていたのだ。あの時は。
ルゥナを助けられた。
自分の命と引き換えにでも、ルゥナを救うことが出来たんだと。
そう思い、自然と笑みが浮かび、幸せのまま崖底へと落下する。
幸せなのはそれだけではない。
ルゥナはあの時、剣を投げ捨ててトワに手を伸ばしてくれた。
必死な顔で、戦う力を手放してでもトワを助けようと。
それではルゥナも落ちてしまうのだが、トワの目には後ろからルゥナを助けに来ていたエシュメノも見えていた。
ルゥナは助かる。自分は死ぬ。
トワの死を目の前に、ルゥナは命の危険も顧みずに助けようとしてくれて、それを目にして死ぬ。
なら、まあいいかと。
――ルゥナ様、褒めて下さるかな。
ただそんな気持ちだけで運命に身を委ねたのだが。
結果として生き残れたのだから、もちろんそこに不満はない。
心は晴れやかだ。
トワの心に巣食っていた暗い影が、晴れ渡っていく。
ルゥナに対して、彼女を追い詰めるようなやり方で迫ってしまってきたことがバカバカしい。
もっと普通に、真っ直ぐに。
良い子にしていれば、それでルゥナはトワの気持ちに応じてくれるはず。
悪いことなど考えなくてもいいと思えば、心は涼やかに晴れていくようだった。
もちろん、これを契機にもっとルゥナの心に根付いていける。そういう打算もある。
病んでいなくても、愛されたいという気持ちはもちろんあるし、その機会は逃さない。
何にしても、今回のは大成功だ。
ルゥナも落ち着けば、トワが要求することに否とは言わないだろう。
もちろん、アヴィに見つからない範囲でという制約はあるとしても、前よりもっと
(トワ固め、いけるでしょうか)
考案中の中でも最もやりたいことの一つを思い浮かべるトワに、ユウラがちらちらと視線を送るが、気づかない。
――トワ固め。
目標の体勢を、ひっくり返したカエルのようにする。
背中を地面に、両膝の裏が空を向くように。
その上に跨るように立つ。後ろ向きで。
右膝の裏に、自分の右膝の裏を。
相手の左膝の裏に、左膝の裏を。
それぞれ重なるように立ち、そこでしゃがみ込む。
目標の両足は、自分の体重で抑え込める。
相手の膝は、相手の肩に着くはずだ。その場合、自然と腰が上がる。
上がった腰は、トワの目の前に。
しゃがみ込んだトワの腰は、相手の目の前に。
相手の自由を奪いつつ、目標の中の最重要目標地点を目の前に据えることが出来る、トワ考案中の一番愛し合える体勢。
(トワ固めの実践投入の機会がこんなに早く……)
いける、このトワ固めなら――!
「あのさあ、トワちゃん」
「はいっ!」
思わず声が裏返ってしまったか。
顔に何かよくないものが出ていたのかもしれない。
ユウラは恥じ入るように顔を伏せて、言いにくそうにしていた。
「な、なんですか、ユウラ」
浮かれていた。
ルゥナが緊張を切らして動揺したのとは別に、トワも浮かれて心を乱しているかもしれない。
「……」
「どうか……しましたか?」
無言が怖い。
ユウラとの付き合いは長い。トワの心を一番よく知るのはユウラかもしれない。
「あのさ……」
「はい?」
どうも、様子が違う。
「相談が……あるんだけど」
そう言われて、ほっと息を吐く。
言いにくそうにちらちらと視線を巡らせるユウラの姿に安堵した。
ユウラがトワの心情を察することが可能だとすれば、逆も可能だ。
一番付き合いが長い。
「ええ、私も。ユウラのお役に立てるんじゃないかって」
いつかそんな相談が来るだろうと。それはわかっていたのだから。
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