第一幕 109話 切れた糸



「ごめんなさい、ごめんなさい……私、私が……」


 泣きじゃくるルゥナの姿など、セサーカは今まで想像したこともなかった。

 涙だけなら、傷を負った時などに目尻から流れるのを見ているが、そういうものとは違う。


 狂乱して、崖から落ちそうになってまで。


 届かぬトワに手を伸ばし、自らが崖底に落ちることも構わずに手を伸ばし、体を投げ出そうとした。

 冷静な姿勢を崩さないルゥナの普段の様子からは考えられない。


 それほど仲間を大事に思っていたのか。

 そういうことだと言ってもいいのだが、セサーカにはどうにも違和感がある。


(トワだったから、なの?)


 アヴィならともかく、他の誰かの為にルゥナが命をかけるなんて。




 ルゥナの手は届かなかった。

 剣を投げ出して差し伸べた手は空を掴み、何も掴めなかった。


 そこで引くべきだったのに、ルゥナが錯乱して身を投げ出すとは誰も思っていなかっただろう。


 エシュメノがミアデに赤子を預けて戻っていなかったら、今度はルゥナが落ちていた。

 筋力、敏捷さ、バランス感覚の全てに秀でたエシュメノだったから、ルゥナの体を抑え込めたのは間違いない。


「離して!」

「だめ!」


 崖から落ちていくトワの姿が目に焼き付いていたのだろう。



 だから、見えていなかった。

 すぐ近くに迫る魔物の影に。



 ――っ!


 雪のように白い。トワの肌を差して使われる言葉だが。

 まさに、雪のような魔物が、ルゥナの眼前を通り過ぎていった。

 白く、日の光を返して煌めくような。



「ウチが!」


 喋った。

 ――のは、違う。


 その白い魔物に跨った誰かが、狂乱するルゥナを制するように言葉を残していった。


 白く長い魔物が、風を切る速度で崖の下に飛んで行く。

 全員が、それを見ていた。

 ルゥナの叫び声はそこで一度止まる。息が止まる。


 白い魔物はその口にトワを咥えて、また猛然と、落ちていった時よりもさらに速い速度で空へと駆けあがった。


「はよしんさい!」


 ルゥナは何を言われたのか分からなかったようだった。

 エシュメノがその体を担いで、大急ぎで崖を駆け上がる。



 霧が集まってきた。

 白い魔物や、ルゥナたちがいた辺りに向けて、急に周辺から霧が集まってきた。


 駆け登るエシュメノや、それに担がれたルゥナは見えていなかっただろう。

 セサーカは、上から見えていた。

 その直前に倒した鳥の魔物の死体が、その霧に触れると見る間に崩れるように食われていくのを。


 この大断崖アウロワルリスには、まだ未知の何かがいるということを、思い知らされた。




 雪のような白さの長い体の魔物。

 雪鱗舞ゆきりんぶ

 長い蛇のような体に尖った頭。体に対しては小さな手足と、細長い羽を持つ魔物。


 ラッケルタよりも長いが、体が細いので重さではラッケルタより軽いだろう。

 それに騎乗して崖を舞い、トワを助け出してくれた女。



 ――ウチかてたばけたけぇ。こがにぃぶちかわええ子が崖ささばってくるさ。


 地域性なのだろうが、あまりにも訛りがきついので、セサーカは耳から入ってくる言葉を口語訳する。


「ウチも驚いたんよ。こんなに可愛らしい女の子が、崖にしがみついて上がってくるなんて」


 こんなところだと思う。



「ウチはウヤルカ。こっちは雪鱗舞のユキリン」


 そう名乗った彼女は、トワを抱きしめたままだった。


「かわええなぁ、たちまち無事でほんに良かったなぁ」

「はあ、ありがとうございます」


 助けてもらったトワは、困ったようにされるがままだった。



 ミアデたちが登っていった時、ウヤルカは崖の上にいた。

 というか、こちらが気付く前に彼女は登ってくる集団に気付いていたわけで、上から見ていたのだと。


 清廊族が、アウロワルリスを登ってくる。

 それをユキリンと共に見ていた。



 ユウラがまずそれに気が付いて、ミアデに知らせた。


 既に頂上付近まで達していた彼女らは、少し迷ったのだと。

 下に向けて声をかけていいのか、とりあえず今は登頂することに集中させた方がいいか。



 ウヤルカも驚いてなんとも言えずにいて、とりあえず笑顔を。

 ミアデも、とりあえず笑顔を。


 何となくの感覚が優先されるミアデと、ウヤルカもそういう気質。

 ミアデが下を指差して、まだ仲間が来るのだと示すと、ウヤルカはそれに頷いて、ユキリンを引いて崖の下を確認。


 そこで黒爪鷲の襲撃があり、助けが必要かとユキリンに跨ったウヤルカのおかげで、トワを助けることが出来た。


 全員が無事だった。

 なのに。




「ごめんなさい。私が……私」

「ルゥナ」


 ようやく本当にアウロワルリスを越えたというのに、そこでルゥナが泣き伏せている。


 誰も犠牲になどなっていない。

 確かに、最後は危うかったし、ルゥナを助けようとトワはその身を投げ出していたけれど。


 責任感の強いルゥナには、自分のせいで誰かが死にかけたことが許せないのかもしれない。

 だとしても、泣き方が異常だ。



「よほど、気を張り詰めていたんだろう」


 ルゥナの取り乱し方に目が離せずにいたセサーカに言葉をかけたのはニーレだった。


「やっとここまで来て、糸が緩んだ。そうなんじゃない?」


 弓使いらしい彼女の表現。



「そう……かも、しれないけれど」


 アヴィに抱かれてもなお泣き続けるルゥナの様子は、普通ではなかった。

 緊張の糸が切れて、人目を気にする余裕もなく感情を吐き出して。


「ルゥナ、大丈夫。みんな平気」

「だけど……違うんです、アヴィ。私が……私は」


 謝罪の言葉を繰り返すルゥナに、アヴィも戸惑いながらそれに寄り添う。

 二人がこの状態では、とりあえずどうしようもない。



「ニーレ、皆をとりあえず休ませて。崖にはもう近付かないように」

「ああ、誰も近付きたがらないと思うけど」


 魔物を食らいつくした霧は、崖のこちら側までは来ることはなかった。





「ええと……ウヤルカ、でしたね。助けていただいてありがとうございます」


 アヴィ、ルゥナが話を出来ないのであれば、この集団を代表するべきなのはセサーカになるだろう。

 多少だが皆より経験が長い。

 ミアデは、こういう役割には向いていないだろうし。


「ええんやて。ウチもこれがお役目なんやし」


 彼女の言葉は訛りが強いので、セサーカの方で理解できるように変換しながら聞く。


「ユキリンは……壱角では、ないんですね?」

「うん、だけんどユキリンはウチの友達や。ちっちゃい頃からな」

「そうですか。ありがとう、ユキリン」


 長い蛇のような体に羽を持つ、真っ白い雪のような魔物。

 ユキリンはセサーカの言葉がわかるわけでもないだろうが、頭を少し上げて返事をしたようだった。


 ラッケルタは、警戒するように距離を取っている。

 見知らぬ魔物同士、喧嘩にならなければいい。



「お役目というのは?」

「ウチなぁ、アウロワルリスを見張るのがお仕事やんか」

「そうなんですか?」

「集落におると、かわええ女の子をいらう・・・もんでなぁ。村長むらおさの娘っ子と逢引きしとったんがいけんだったか」


 いらう。触る、触れるという意味か。


 可愛い女の子を、無理やりかどうかはわからないが、見るとつい触ってしまう。

 今もトワの体を抱きしめながらあちこちに手を回しているのを見ているので、村で何をしていたのかはわからないでもない。



「人間がアウロワルリスを越えようと色々やっちょるけん、見張りをせえって。まあ追い出されたんやけど」

「それで、お役目ですか」

「言っても、いつになっても人間なんぞ来やせんわ。来たところで霧食虫きりくいむしの餌じゃ」


 霧食虫。先ほど群がってきた霧のことだと理解する。



「あれは何ですか?」

「虫じゃ。岩場の隅っこにようけおる。陽が当たっとればいついき大人しいもんやけど、空飛ぶ魔物を見るとあがにせせろしいけんやれんよの」


 無理だった。セサーカの翻訳が追い付かない

 理解できないという顔をしたのがわかったのか、ウヤルカがにゃははと笑う。


「いけんの。ええと、空を飛ぶ魔物がいると、ああして大騒ぎになるから大変なんよ」

「なるほど、そうなんですか」



 ゆっくりと言い直してもらって理解は出来たが、霧食虫とやらのその行動原理はわからない。

 虫だと言うのなら、炎の大規模魔法でも使えれば焼き払えるかもしれないが、そんなことをする理由もなかった。



「つまり、ウヤルカは村を出て、この大断崖を見張る役目をしている、と」

「お役目ってやつは体裁で、村に置いとくとかわええ女の子をみぃんな取られちまうって男どもが心配しとったさ」


 言い繕わなければそういうことらしい。

 断崖を常時見張る必要は、これまでなかったのだろう。


 ウヤルカは、見れば凛々しい顔立ちをした綺麗な女性だ。若い娘が姉のように慕うことも不思議はない。

 それを良いことに、嫁入り前の娘を弄ぶ。

 問題児ということで集落から離れた仕事を押し付けられた。


 その割に、彼女はとても元気そうだが。



「ウチにはユキリンがおるけぇ。ユキリンがおれば食うのには困らんし、村の女も代わり番で食べ物だの運んでくれるけん」


 ぺろりと舌を出した。

 食べているのは食べ物だけではなさそうだ。


「それにな、ウチが見張りやっとったら、こんなかわええ子がたくさんウチのところに来たんやんか」

「別に貴女の所に来たわけでは……」

「きっと魔神様がウチにご褒美をくれたんじゃ。ウヤルカ、えらいのぉって」


 違いますから。



「あ、あの……」


 ご褒美第一号としてそれまでされるがままだったトワが、身じろぎして離れようとする。


「困ります、ので。こういうのは」

「そか? ウチも無理やりってぇのは好きじゃないけ。また後でな」


 物分かりがいいのか悪いのか、また後でと言うウヤルカにトワがきっぱりと首を振る。


「私はルゥナ様のものですから」


(そうだったの?)


 思わずセサーカが聞きたくなってしまった。

 トワがルゥナを強く慕っていることは見ればわかるが、いつの間に。



「ルゥナ様ってのは?」


 全員の視線がルゥナに向かう。

 ようやく喚くのは治まったが、まだ肩を震わせてアヴィに抱かれていた。


「あの子もかわええなぁ」


 見境なしか。



(いえ、確かにトワもルゥナ様もとても可愛くて綺麗なんですけど)


 ウヤルカはどうやら可愛い女の子を見るとうずうずしてしまうらしい。

 問題児として集落を追い出されたのも仕方がない。


「ルゥナ様は、アヴィ様が……大事にされていますから」


 一応言っておく。


 それよりも彼女は、セサーカたちがどういう経緯でここに辿り着いたのかということには興味がないのだろうか。

 可愛い女の子が贈り物のように届けられた、という形で完結してしまっているようだが。




「なあなあ、アヴィ様?」

「後にして」


 セサーカが考えている隙に、トワを離して身軽になったウヤルカがアヴィに近付いていった。

 だが冷たく袖にされている。


「ルゥナ様、ウチに譲ってくれる気ぃあるんか?」

「……」


 ぬらっと、アヴィが立ちあがった。

 まずい。



「あ、アヴィ様! 待ってください」


 慌ててセサーカが間に入る。



「トワを、助けて下さったんです。だから……」

「ルゥナは物じゃない」


 庇うように、ルゥナの前に立って言うアヴィ。

 その姿に、思わずセサーカがきゅんと胸を締め付けられる。


 セサーカも、ミアデのことを特別に大切に思っているが、アヴィへの憧れも消えたわけではない。

 伴侶がいたって、偶像に憧れる気持ちはなくならない。

 アヴィにそんな風に言われたら、それはどれほど幸せだろうと。

 目の前で聞かされて、思わずほうっと頬が熱くなった。



「あー、ああ……ごめん。そういうつもりじゃなかったけ」

「だけど」


 セサーカの横からアヴィが距離を詰めた。

 ウヤルカのすぐ傍に。

 アヴィより少し背が高いウヤルカの頬に、手を添える。


「助けてくれた。ありがとう」

「や、あ……んむぅ! んん……」



 やるかなとは思ったのだが、少し呆けてしまっていたセサーカには止められなかった。


 御礼の口づけ。

 無理やりというか、同意を得たとは言えないのだが。



(ウヤルカ自身は、幸せそうですから)


 驚いていた彼女の目が、うっとりと緩んでいる。

 堕ちている。

 アヴィは先ほどから聞いていたのかもしれない。ウヤルカが女好きだとか。


「……あ」

「私なら、いつでもキスをする。ルゥナはだめ」


 ルゥナは特別なのだ。アヴィにとって。



「あ、うん……じゃあもっかい」


 キスという言葉は聞きなれなかっただろうが、遠慮なくおかわりを要求したウヤルカに、アヴィは今度は優しく唇を重ねていた。


 それが許されるなら私も、と。

 セサーカはとりあえず言いたいことをしまい込んで、溜息を吐くのだった。



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