第一幕 108話 崖に降る銀_2



 トゴールト領主邸の修繕は、とりあえず応急処置しかできていない。

 十日やそこらで出来るはずもなく、とりあえず穴を塞いだだけだ。


 それでも、町中の全壊した建物に比べればマシだ。

 常駐する兵士の詰め所や来客用の応接間などの部屋は、紅蓮の大蛇のような炎で潰されてしまった。

 そこを繋ぐ通路をとりあえず塞いであるものの、領主の館に隙間風が抜けるというのも少し情けない。



「ああ……」


 溜息を吐く領主ビュロケス。

 被害の報告のまとめや、どこから復旧していくか。町の機能を取り戻す為にやることは多い。

 出費も多い。

 息子を失った悲しみもあるだろう。



「嘆いている暇などないのでは?」


 クロエの声は少々冷たかったかもしれない。

 ピュロケスは視線を上げ、クロエに向かって縋るような情けない表情を浮かべる。


「しかし、これでは……」

「嘆いている暇などあるのなら、残った資産を使ってでもマステスから職人でも呼ぶべきでは?」


 ピュロケスは、領主の椅子に座ってはいるが、すでに彼の個人資産などない。

 全てマルセナの支配下だ。



「マルセナ様は、魔物を使った部隊を拡充したいと仰っていました」


 今はここにいない本当の主の希望を、再度伝える。

 忌々しいことに、あのイリアと共に出かけてしまった。


(あんな異常性癖女より、私の方がマルセナ様のお役に立てるのに)


 その苛立ちが、ついピュロケスへの冷たい態度になってしまっているのかもしれない。


(私の方が、真っ直ぐにマルセナ様をお慕いしているのに)


「クロエ……そなたとて、ニカノルを……」

「やめていただきたい」



 ピュロケスが口にした名前に、虫唾が走る。

 今にして思えば、なぜ愛のない婚姻などを了承していたのか。


 兄の要望ではあった。クロエ自身、未来の領主夫人という立場に興味を感じなかったわけでもないが。

 ニカノルにもピュロケスにも気に入られ、だから仮初でも愛そうかと思っていたのだ。



(兄は……私が、望まぬ結婚をすることを悔み、マルセナ様と……)


 後でその話を聞いた時に、稲妻に打たれたような衝撃が走った。

 この町での天翔騎士の立場を確立する為とはいえ、妹を道具のように扱ってしまったことを後悔している。


 マルセナという協力者を得て、別の形で――クーデターという形で、この町の支配者になろうとしたのだと。



 兄は死んだが、マルセナは生きている。

 そして、少し違う形ではあるが、町の支配者として存在することになった。


 クロエも生きている。

 望みが出来た。

 マルセナに仕えたい。マルセナに愛されたいと。

 出会ってわずかの間に、イリアの心は目まぐるしく変わってしまった。


 流されるだけの人生だったが、あの日にマルセナと接してから激しく心が動いた。

 その感情はクロエを大きく混乱させたが、一つだけ確かに思うことがある。


(マルセナ様は、美しい)


 姿形もだが、何者にもまつろわぬその姿勢。

 自らの望む道をただ進む姿にも憧れ、恋焦がれ、心服した。


 今までのクロエになかったものであり、劇的な状況で見せられたことで、魅せられた。

 畏怖もある。

 だが、臣従するのであれば、畏怖も安堵に変わる。


 美しく強いマルセナの庇護を受けたい。

 寵愛を。



 イリアは邪魔だ。クロエにとって、マルセナとの間の障害でしかない。


(あの変態女……マルセナ様の天顔に、こともあろうに排尿などと)


 ぎり、と歯軋りをする。

 犬畜生でもそのようなことを考えまい。

 女神に尿をかけようなど。



「今は、町の復旧と戦力の再編成。それがマルセナ様のご希望です」

「クロエ……そなたどうして……」


 ピュロケスは納得できていない。

 なぜクロエの心がこうもマルセナに傾倒してしまったのか。


 クロエは、首にスカーフを撒いている。

 反逆者パシレオスと戦った際に、醜い傷跡が残ってしまった為だということで。

 実際には傷などない。

 何も、ない。

 今はまだ。


(いつか、マルセナ様のご寵愛をいただける時の為に)


 黒い呪枷を、まるで契りを交わすようにもらえる日を夢見て。

 クロエは表舞台に立つのだから、黒い呪枷があっても隠す必要がある。その前準備だ。



「お前も、隷従の戒めを……?」

「愚かしい!」


 思わず怒気を込めて返したクロエに、ピュロケスの肩が震えた。


 ピュロケスの後ろ首には、マルセナへの隷従の呪術が刻まれている。

 クロエが望んでももらえないものと同じ効果。


 仮に隷従の呪術を刻まれても、心は元のままだ。

 不在の時に、逆らわないまでも、愚痴の一つくらい出てもいいのではないかと。

 まして婚約者を殺されたクロエに、何も不満がないのかと訝しんだ。



「今のはマルセナ様への反抗の意志ですか?」

「ち、違う。決して……」


 自分の延髄を手で覆って首を振るピュロケス。

 当然だ。マルセナに不利になる考えを抱いたら耐え難い激痛が走るように制約がかかっている。


「そ、そなたには……呪枷がないと聞いたが」

「だから?」


 今度は怒気ではなく、殺気だ。


 クロエには、マルセナは隷従の紋をくれない。望んでも。

 それを馬鹿にされているのかと、そうではないとわかってはいるが、つい苛立ちが殺意へと変わる。



(……この町を治める為に、まだ殺してはいけない)


 そうでなければ殺していたかもしれない。激情に駆られて。


「だから何です? マルセナ様はこの町の……いえ、このカナンラダの支配者となるべきお方です。その意思に従い行動するのが私の役目です」


 呪枷がなくても、クロエはマルセナの忠実な信徒だ。

 一番の親愛をいただくべき臣下でありたいと思っている。


「全ての人間が、マルセナ様のお言葉に従うべきなのです。その為に戦力がいる。わかりますか?」

「あ……あ、ああ」

「最初にこのトゴールトを選んでいただいた。そのことへの感謝を忘れず、全ての私財を投げ打ってマルセナ様のお気持ちに報いなさい。わかりましたか?」


 力なく頷くピュロケスに背を向け、クロエは部屋を出た。




 自分に割り当てられた部屋に戻り、胸にしまっていた布を取り出す。

 マルセナから下賜された、彼女が履いていた靴下だ。


 いや、下賜されたわけではない。

 少し前に、イリアに向けて素足を突き出した際、脱ぎ捨てたそれを回収しただけなのだが。



「……んん」


 その布地にわずかに残った女神の香りを吸い込む。

 微かに、金銀花の蜜ような甘く優しい匂いが、クロエの顔をマルセナが踏みしめてくれるように感じさせた。


「マルセナ様……」


 とろりと、頬が緩む。


「早く、戻ってきてくださいませ」


 寝台に飛び込み、マルセナの残り香に身悶えさせながら、クロエは愛しい主の帰りを待ちきれずにその身を熱くしていた。



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