第一幕 105話 零れ落ちる罪



「断崖……アウロワルリス」


 洞窟は終わった。

 崖沿いに、道とは呼べない岩場の急斜面に出た。

 天井がない。その解放感だけでも自分たちが進んできたのだと実感できる。


 アウロワルリスは越えられる。

 ソーシャの言葉は正しかった。



「やっとたどり着きましたね、ルゥナ様」


 その言葉に頷きかけて、そっと首を振る。


「まだです、セサーカ」

 ここが終着点ではない。


 そもそも、まだこの断崖を越えたとは言えない。

 今は、北側の崖面の中腹に出ただけだ。


(中腹……いえ、かなり上ですね)


 どうにか上を確認すると、もう少しで頂上というように見える。

 そこまで辿り着いてようやく、この断崖を越えたと言えるだろう。

 まだ気を抜いてはいけない。



「んー、なんとか……進める、かな」


 先行していたミアデが、岩に手を掛けながら自分の辿ったルートを振り返る。

 絶壁というほどではない。

 急斜面ではあるが、岩が突き出していることもあり、それらを伝っていけば上まで登れそうだ。


「子供は無理かも」

「ネネラン、ラッケルタはどうですか?」

「問題なさそうですー」


 トカゲの魔物であるラッケルタは、岩の隙間などに指を掛けながら斜面を登ることができそうだ。


「幼児はラッケルタの背中に縄で固定しましょう。絶対に落ちないように」

「やったぁ!」


 なぜか子供たちから歓声が上がった。

 安全のための措置なのだが、魔物の背中に乗るということを喜んでいるらしい。

 嫌がられるよりはいい。


 それとは別に、子供達なりに周りの年長者を鼓舞しようという気持ちがあったのかもしれない。

 大変だけれども、もうひと頑張りだからと。


 時折、強い風が吹きつける。注意は必要だ。

 赤子はエシュメノが背負った。体力的にもバランス感覚としても彼女が一番優れている。



「すみません、アヴィ様」

「平気。軽い」


 妊婦はアヴィが抱き上げた。

 身体能力に優れるアヴィにとっては、ラッケルタよりも軽いと思うのだろう。


「ミアデ! 先行して不安定な足場がないか確認を。貴女も気を付けて下さい」

「はぁい」


 彼女の声も明るい。

 人間の追手から逃げ回り、地の底を這いまわるような生活から解放される。

 苦労が報われるとなれば、誰もが前向きに進めるものだ。



 全員が上り始める。ミアデとユウラが先行して足場を確認、その後をラッケルタとアヴィが進む。


 ニーレは周囲を警戒しながら、少し外れたルートを進んでいた。

 戦えないなりにルゥナ達の補助をしてきてくれた清廊族の仲間たちがそれに続き、お互いに手を貸しながら登っていく。



 ルゥナは一番後ろだ。

 万一、滑落する者がいれば助けなければならない。

 後ろからの脅威もないとは言えない。ここまでも襲ってくる魔物もいた。



「トワ、行きなさい」

「ルゥナ様と一緒です」


 微笑みと共に返すトワ。

 この洞窟の中でも力を貸してくれた。

 危険な岩弾からルゥナを守ってくれたし、怪我をした仲間を癒す時も嫌な顔ひとつせずに。



(また……ご褒美、とか。期待されているのでしょうか)


 言われても仕方がない。

 それだけの活躍をしていると思う。また、ルゥナは前回それでトワに口づけをしている。


 頑張ったのだからもう一度、と。ねだられるのか。

 あるいは、それ以上を……求められたら、どうしたらいいのかわからない。


 決してトワのことが嫌いなわけではない。

 美しい娘であるし、自分を慕ってくれる気持ちが嘘ではないとわかっている。

 アヴィの力にもなり、仲間も助けてくれるのだ。嫌うことなどない。


(ただ……少し、怖いだけ)


 ルゥナが恐れているのは、トワの内面のことなのか、自分の後ろめたさを暴露されることなのか。


(落ち着いたら、ちゃんと話しましょう。トワにも、アヴィにも……怒られてしまうかもしれませんが)


 嫌われてしまうかもしれないけれど。

 それでもこんな気持ちを抱き続けるよりはいい。

 思わず溜息が漏れたルゥナに、トワが首を傾げる。



「いえ……行きましょう」

「はい、ルゥナ様」


 少し考え事をしていたルゥナは、トワの接近に気付いていなかった。

 不意打ちで頬に唇を受ける。



「……トワ」

「アヴィ様の見ていない所でなら、甘えてもいいって」


 そんな約束をしただろうか。したかもしれないが。

 確かにアヴィは今は先を進んでいるし、皆の視線も進むべき道へと向かっている。

 誰も見ていなかっただろう。



「……そういうのは、いけません」

「はい、ルゥナ様」


 トワの笑顔に邪気はない。

 むしろそれが怖い。悪戯だったのだと少しは悪気を見せてくれた方が安心できるのに。


「とにかく、行きましょう」



 今度は素直に頷いて進むトワの背中を見ながら、ルゥナも登る。


 道ではない、斜面の岩場。

 岩自体は強く大地に繋がっている感触があった。長年この断崖で風雨にさらされてきた岩なのだから、少しくらいのことで落ちることもないのか。


 ただ、思ったよりも斜面がきつい。

 垂直ではないにしろ、うっかりバランスを崩せば真っ逆さまに崖下だ。


 ルゥナの手には、抜き身の剣がある。

 ブラスヘレヴには鞘がない。

 鋭い刃なので、紐か何かでぶら下げておくと足を傷つけかねない。

 それを持つために片手が塞がってしまうのは避けられなかった。


 それでもルゥナの身体能力なら、片手が塞がっている程度で登れないことはなかった。

 時折、その剣も支えにしながら岩を登る。


 トワが振り返り、ルゥナに笑顔を見せてくれる。

 下にいるルゥナからは、彼女の尻も丸見えなのだが。


「トワ、私は気にしなくていいですから」

「でも気になってしまうので」


 ふふっと笑うトワの声。

 こんなトワを悲しませるようなことは言いたくない。

 そういう気持ちもあるのだ。


 ――ルゥナ様は、トワを好いているんですか?


 ミアデに聞かれた言葉を思い出す。


 そうなのかもしれない。アヴィが最優先なのは変わらないとしても、トワのことも好きなのかもしれない。

 アヴィが他の女とキスをしたと僻んでいた自分なのに、これでは。




「ルゥナ様!」


 大きな声は、トワではなかった。

 一番先に上に行ったミアデだ。


「まずい!」


 危険を知らせる声だった。

 彼女の示す方向を見れば、霧に霞む空から三つの影が迫ってくるのが見える。

 大きな、鳥の魔物だ。

 かなり上空からこちらを目掛けて襲ってくる。



「はぁっ!」


 ニーレが、少しでも足場の取れる場所に移動して、矢を放った。

 だが強風に煽られ、目標から逸れた。

 修正した二射目がそのうちの一匹に向かうが、今度は鳥の魔物の方が軌道を変えて避ける。


「天嶮より下れ、零銀なる垂氷」

「GYAGII!」


 セサーカの放った三つの氷柱が、一匹を撃った。

 それで仕留めたのかはわからないが、大きく軌道を変える。



「ルゥナ様! 早く!」

「私のことより自分を!」


 なお迫る二匹の鳥の魔物。

 姿がはっきりわかる距離になると、それが黒爪鷲くろづめわしと呼ばれる超大型の猛禽類だとわかった。

 鋭い爪と嘴を持ち、羽を広げたその体は成人男性の倍はある。



 黒爪鷲は、一番後尾にいたルゥナとトワに狙いを定めたようだった。


「この程度の魔物!」


 セサーカの追撃は間に合わない。ニーレは矢が尽きていた。

 だが、敵の爪が届く距離であれば、ルゥナの持つ剣も届くのだ。


「はっ!」


 ルゥナの目を抉ろうとしたその爪を、ブラスヘレヴが足ごと切り落とした。


「GIAAA!」


 続けて襲ってくる黒爪鷲は、爪ではなく嘴だった。

 剣を振り抜いた姿勢のルゥナに、鋭く尖った嘴を胸に突き立てようと。



「まだっ!」


 無理な姿勢だった。

 嘴を突き刺そうと直進する黒爪鷲の速度はとてつもなく速い。

 それを、無理やりに返した剣で斬り捨てる。


「ふっ!」


 その首を斬り落としつつ、岩に激突する黒爪鷲の体を避けて。



「っ!?」


 揺れた体を支えようとした右足が、空を泳いだ。

 踏みしめる足場がない。


「しまっ――」


 態勢が崩れ、急な斜面に対して体が斜めになる。

 引き戻すことが出来ない。

 左足も、踏んでいた岩場から浮いて。



「ルゥナ様っ!」


 トワの手が、ルゥナの手を取った。

 思いの外力強く、しっかりと。

 そして、引き戻す。崖の岩場へと。



「あっ!」


 落ちかけたルゥナを掴んだトワも、不十分な体勢だったのだろう。

 強引に引き戻したルゥナと入れ替わるように、小さな体が宙に投げ出される。

 するりと抜けた手が、空を掴む。



「トワ!」


 ルゥナは右手を伸ばした。

 持っていた剣を投げ出し、右手を伸ばした。



「あ……」



 トワの灰色の瞳が揺れる。

 ルゥナの瞳を捉えて、微笑みを湛えて。


 無邪気さは、時に色を感じさせないのだとルゥナは感じた。


 死にたくないとか、どうして自分がだとか。

 そういう感情の一切を浮かべず、ただ微笑だけを残して。


 ルゥナの気持ちは、刹那の間だったが、退いたのかもしれない。

 あまりに美しすぎて、怖くて。



「トワ!」


 剣を投げ出したルゥナの手は、トワの手を掴むことが出来なかった。



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