第一幕 106話 嘘、ですか?
マルセナの馬鹿。
マルセナの馬鹿。
もういやだ。マルセナと話なんかできない。
顔も見たく……見たいけれど。いつも見ていたいけれど。
でも、もう顔を合わせられない。
聞かれたくなかった。
聞かせたくなかった。
自分の心がどれだけ汚れているのか。そんなの好きな人に知られたくないのは誰だって同じだ。
多かれ少なかれ、誰にだって歪んだ欲求はあると思う。
マルセナは別だけど。マルセナは女神の子だから別だけど、人間なら。
だけどそれはやはり後ろめたいことで、誰かに知られるのは怖くて、表に出さないこと。
時にそれを大っぴらにする人もいるだろうけれど、イリアは違う。
――イリアったらもう、本当に変態ですわね。
泣いた。
マルセナの声が優しく聞こえて、余計に惨めで、泣き伏した。
そんなイリアの前で、こともあろうにあの女は言ったのだ。
――私にも、マルセナ様の呪枷を下さい。
あの女は騙した。
マルセナが天翔騎士の兄と共謀していたのだと適当な話をでっちあげたら、あっさりとそれを信じ込んだ。
とても信じられないような作り話だっただろうに、愚かな女はそれを簡単に信じて、マルセナに従うと言いだす。
その挙句に、イリアとマルセナの間にある呪枷を自分にもくれと。
この黒い呪枷をつけた経緯には、色々と思うところもある。
けれど、これがあるからマルセナはイリアを信頼してくれているというのも事実だ。
決して裏切ることがない仲間。
だからあんな非道な仕打ちをするのだろうけれど。
それを、いけしゃあしゃあと欲しがるなんて、あの雌狐が。
マルセナは、どうしましょうかと言って答えを保留しつつ、まだ涙を流すイリアの前でその娘の首をなぞっていた。
新しいおもちゃがてに入るのなら、汚らわしい変態のイリアなど捨ててしまおうか、と。
そう言われているようで。
(やだ……いやだ……)
睦み合う二人の甘い声に耳を塞ぎ、部屋の隅にうずくまった。
そのままもう夜中になっている。
「イリア」
「……」
イリアに声を掛けるのはマルセナだけだ。
本来なら答えなければならないだろうが、とてもそんな気になれない。
薄暗い部屋の片隅で、膝を抱えて俯いている。
「イリア……もう命令はしませんから」
「……」
「約束します。今日はもう、命令しませんから」
約束。
そう言って語り掛けるマルセナに、目線だけを向ける。
「……ほんとう?」
「本当です。嘘だったら何でも言うこと聞いてあげますわ」
だから、ね。
幼い子をあやすように、囁くように促されて、頷く。
「ん……」
まだ涙の残る頬を拭いて、改めてマルセナの顔を見る。
優しい顔だった。
「少しいじめすぎました。わたくしも反省していますから」
「……マルセナが……私のこと、嫌いに……」
「なりません」
そう言って、イリアの手を取る。
そして、その指に舌を這わせた。
「ほら……はむ……ね、イリア。嫌いだったらこんなことしませんわ」
「……ごめん、なさい」
しゃがみ込んでいた態勢から、語り掛けてくれるマルセナの膝に縋りつく。
「お願い……嫌いに、ならないで……」
「ですから、イリア。嫌いになるなんてありません」
マルセナはいつも良い匂いがする。
甘くて優しい金銀花のような香りが。
膝の間からマルセナの腿に顔を寄せて、捨てないでと訴えた。
「本当にマルセナが好きなだけ。マルセナを裏切ったりしない」
「ええ、わかっています」
優しく答えてくれるマルセナに安堵する。
嫌われていない。捨てられないと。
「あんなの嘘なの。あんな悪いこと考えたり……」
「……」
ぐいっと、顎を掴まれた。
「ひ……」
マルセナの瞳が、イリアを覗き込む。
その奥の奥まで覗き込もうと。
「嘘……ですか?」
「あ、あ……」
「イリア。わたくしに嘘をつきましたか?」
先ほどまでとは打って変わって、底冷えするほど静かな声で。
ずっと座りこんでいたせいで溜まっていた生理現象が、イリアの下腹を締め付ける。
「い……ちが、う……ちがう、嘘は……」
「わたくし、嘘は許しませんわ。ねえイリア」
顎を掴まれたまま、立ち上がらされる。
マルセナの方が背が低い。
イリアの顎を左手で掴み上げ、右手の指でイリアの喉元から胸の間、へそから下へと線を引くようになぞる。
「嘘は、嫌いですの」
「あ……あ、あっ……」
「イリア、わかりますかしら?」
ずん、ずんと。
へその下あたりを指で突かれる。
「貴女がこのお腹の中で何を考えているのか、わたくし聞きたかったのですけれど……あれも嘘だと?」
「ち、ちがう……」
「もしかして、わたくしに愛してほしいとおっしゃったのも……あれも嘘、ですか?」
「違う! 違うの。本当だから……本当に愛してる。私、マルセナに愛されたくて……」
「では何が嘘なのでしょう?」
「うぅっ」
マルセナの手が乱暴にイリアの胸を掴んだ。
甘いものではない。心臓を掴むように。
「イリア、わたくし嘘は嫌いですの」
「ごめ、ごめんなさい」
「謝れと言ってはいません。わかりますか?」
「ごめんなさい! 嘘なんか言ってない! 本当だから……全部、本当だから……」
「全部、とは?」
「……話したこと、全部……本当だから。マルセナに言うのは、全部本当のことだけ……」
「あの変態的な性癖も、ですか?」
思い起こされて、羞恥で体が熱くなる。
「……」
「イリア!」
右手が、イリアの胸を離して、もう一度へその下を強く突いた。
「あっ!」
それが、我慢の限界だった。
じゅわっと広がる生暖かい感触と、その匂い。
「あ、ああ……」
「あら、まあ」
マルセナも想定外だったのか、少し驚いたように目線を向ける。
「や、やだぁ……」
広がる染みと水の流れる音。
マルセナはそれに目を奪われるように沈黙した後に、イリアを見上げる。
その瞳は、優しさを取り戻していた。
「あらあら、イリアったら……恥ずかしくて、嘘だなんて言ってしまったのですわね」
「いや……いや……」
「もう、イリアったら本当に。やっぱりこういうのがお好きなんじゃないですの」
顎を掴んでいた手を離して、くすくすと笑う。
「ごめ、ごめんなさい……」
「いいんですのよ、イリア。わたくしは貴女が変態だからといって嫌いになったりしません」
汚れたイリアに、マルセナは優しく微笑みかける。
気にしなくていいのだと、本当に慈愛に満ちた女神のように。
「嘘はいけませんけれど……これなら命令するまでもなく、イリアにとって快感と排尿の感覚が近しいとわかりましたから」
そういうわけではない。
ただ、長い時間うずくまっていてトイレにも行かなかったから。
(……違うの、かも)
漏れ出した時に、ほんの少しでも安堵する気持ちがなかっただろうか。
マルセナに見られているのに。見られているから。
「自分でもよくわからないものですわね。性癖というのは」
「あ、う……」
「けれど、さすがにそのまま寝るわけにはいきませんから……一緒に寝るのでしょう?」
マルセナの言葉に、俯き加減だった顔をはっと上げる。
(いっしょに……寝る?)
ごく当たり前のように訊ねるマルセナは、イリアを拒絶している様子はない。
「あ……いい、の?」
「そのまま寝台は、わたくしも少し困りますわね」
何を悩んでいたのだろうか。
恥ずかしい。死にたい。顔を合わせられない。
イリアがそう思っていたのは、マルセナに拒絶されると思ったからだ。
当のマルセナは、何も気にしないように不思議そうにイリアを見ている。
先ほど、嘘をついたと言った時には恐ろしいほど冷たい視線を向けられたが、そうでなければ。
だとすれば、イリアの性癖がどうだとか羞恥心だとかは、それらは問題ではないのではないか。
大事なのはマルセナの傍にいること。
それが適うのなら、今のイリアに他に優先すべきことなどない。
「クロエが沐浴の準備をさせているはずですから、行きましょうか」
「い、いっしょに……?」
「? いつもそうでしょうに」
何を当たり前のことを、と。
それから少し笑って、
「うっかり浴場を壊さなくて良かったですわね」
冗談のように言って、部屋を出ていく。
イリアの悩みなど小さなことだ。
自分がどれほど卑猥で下劣な欲情を抱いていたところで、マルセナにとっては問題ではない。
人間なのだから、色々な性癖がある。
イリアにそれを無理やりに告解させた時は楽しんでいたとしても、それを理由にイリアを拒絶したりはしないのだと。
その背中を追って呼びかけるのに、涙が堪え切れない。
「マルセナ」
「なんですの?」
「……大好き。本当に、本当に大好き」
今度の涙は、悲しみの色ではなかった。
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