第一幕 67話 啜り泣く声_3
ラッケルタに乗っているのは好きだ。
ヘリクルが不安を感じないのは、ラッケルタに乗っている時だけだから。
他の者はほとんど寄ってこないし、ラッケルタの動きで押し付けた股間が擦れるのが心地よい。
誰かが見ているのもいい。良い女であればより良いが、残念ながらこの養殖場に女は少なかった。
ごく少ない天翔騎士の女どもの視線がある時は、必ずいつも蔑む視線だ。
ラッケルタに乗り股間を固くするヘリクルを、彼女らはいつも冷たい目で見る。
時には上空から唾を吐かれることもある。
それはヘリクルをとてもとても興奮させた。
つい跨る足に力が入り、ラッケルタが急ぎ足になると摩擦が激しくなる。
彼女らはそれをヘリクルが嫌がって逃げようとしているのだと理解しているらしいが、事実は逆だった。
父親……ヘリクルは父を、知らないわけではないが、話をした記憶はほとんどなかった。もう死んでしまったが。
父のことを、母は大層恨んでいた。
成功を手にしたら、あっさりと自分を捨てたのだと。
幼かったヘリクルにはよくわからない。
父は出ていく際にいくつかヘリクルたちに残していったものもあったし、その後も言葉をかけることはなかったが色々と気遣いはされていたと思う。
この養殖場の警備という仕事も、父がそう取り成してくれたのだと知っている。
父が出ていく頃は、まだラッケルタは小さかった。当時のヘリクルほどではなかったが。
鎖につないでいただけのそれに、黒い呪枷をつけろとヘリクルに言ったのは父だった。
安くはないだろう黒い呪枷――一度つけるとつけられた者には外せず、また成長と共に大きさを変えていく。その十日ほど前にヘリクルの血を瓶に採っていったのも、その呪枷の為だとか。
ただの首輪ではなく呪いの道具だ。
それをラッケルタに嵌めたことで、ヘリクルはラッケルタの主人になった。
もう一つ、白い首輪があった。
白い首輪をつけた少女がいた。
それは、父が出ていくことになる少し前に、ヘリクルたちの家に来た少女だった。
翔翼馬を捕えた報奨金は大きく、父はトゴールトに小さな家とその少女を買った。
母には、家の雑事の為だと説明していたが、もちろんそれだけではなかったのだろうと今ならわかる。
影陋族の奴隷少女。適当に伸びた前髪で目元がよく見えず、頬にソバカスも見える地味な印象の少女。
見栄えの為だったのか知らないが、安く買えたのだとか。
その少女も置いていった。
父が行く新しい家には連れていけないということでだったのだが。
置いて行かれたその奴隷少女とラッケルタはヘリクルのものになった。
母はしばらく荒れていたが、いずれ父が残した金と共に町から姿を消した。
どこかの男と別の町にでも流れたのか、それとも金も命も奪われたのか。
残されたヘリクルは、影陋族の奴隷に家事をさせながら、ラッケルタと共に簡単な冒険者の真似事などをして成長する。
そうしているうちに年齢も十三を過ぎた頃、トゴールトの兵士から言われた。
町の北にある魔物の養殖場の警護の仕事をしないか、と。
大きくなってきたラッケルタは町で暮らすのに不自由になりつつあったし、ヘリクルも人間の多い場所を億劫に感じていた。
ラッケルタとヘリクル、またその奴隷も住める場所は用意してくれると。
仕事さえすれば食べ物にも不自由はさせないということで、ヘリクルはその話を受ける。
後で天翔騎士から言われた。
町で暮らしていると、父や、父の新しい妻の目に留まるのだと。
だから追い出されたのだとか。
事実かもしれないが、別にどうでもいいと感じた。
人の目が多すぎるのは好きではない。雑踏というのか、そういう場所は嫌いだ。
あまり人気のない場所で、たまに蔑むような視線に気づくと股間が熱くなる。常に人目に晒されているのとは違う。
ヘリクルが自分の性癖をはっきりと自覚したのは、ここにきてしばらく経ってからだった。
「……」
住処に戻り、ラッケルタにそこで待つように指示して、体内に蓄積した鬱憤を晴らす。
吐き出す。
吐き出す相手はいる。相手というのか、道具というのか。
この三十年近くでヘリクルは自分が年齢を重ねたと思うが、その道具はあまり色褪せない。
いつも蔑むような冷たい目でヘリクルを見ている。
そういう目で見るように命じているのもヘリクルなのだが。
ここで良いのは、命じられたからそのような目をしているのではなく、心の根っこからヘリクルを侮蔑しているところだ。
嫌悪し、厭い、唾棄する。
けれど逆らうことは許されない。そういう関係が結ばれている。
母は父を恨んでいたかもしれないが、ヘリクルにとって父は必要なものを全て与えてくれていた。
恨みなどない。
もう一対の瞳もある。
赤黒い鱗の中に、感情を感じさせない黒い瞳。
ヘリクルが小用を済ませている間、その黒い瞳がヘリクルを映している。
冷たい瞳。
トカゲの魔物であるラッケルタの瞳は、全く温度を感じさせない。
それがまた良い。
逆の組み合わせの場合もある。
ヘリクルが跨るのが、逆の場合もある。その場合は見つめる瞳が逆の立場になるだけだ。
特に意味はないが、その時の気分次第だった。
白い首輪と黒い首輪。どちらを嵌めていても、ヘリクルの命令に逆らうことはないのだから。
※ ※ ※
ヘリクルが眠った後に、彼女は体に残る唾液を拭って立ち上がった。
拭ったところで汚れがなくなるわけでもないが、そのままにしていると臭いが残る。
吐き気のする臭いが。
いくら時を過ごしても変わらない。
無防備に眠る男を殺してしまいたいと思わないわけではない。
毎日、思っている。
毎時、思っている。
思わない瞬間はない。
けれどそれは出来ない。白い首輪をつけた自分も、黒い首輪をつけた魔物も、この憎い男の身の安全を守るよう命じられていて、それには逆らえない。
死んでしまえばいいと思っていたところで、いざ男の身に危険があるとわかれば、それを知らせ、身を挺して守ることになる。
自由のない毎日。
あとどれほど続くのだろうか。
死ぬまで続くのだろうか。
死ぬことさえ許されないのに。
「今、ごはん用意しますね」
黒い瞳に、瞼がかぶさり、戻る。
感情を読み取ることは出来ない。ただの条件反射として応じているのかもしれない。
そういえば、魔物は人間の言葉による指示に従う。
難しいことは出来ないが、進めとか止まれとか、見知らぬものに対して攻撃をしろだとか。
ある程度は言葉を理解できるのかもしれない。
話すことは出来ないから、ただ雰囲気で察しているだけなのかもしれないが。
「……」
トカゲの魔物――ラッケルタの食事を用意するのは嫌いではない。
作業的な話ではなく、ラッケルタは食べ物をもらうとほんの少しだが嬉しそうに尻尾を動かすのだ。
忌まわしい男の食事を用意するよりも楽しいと思う。
生肉を切るだけなので作業が楽なことも、もちろん多少は気が軽くなるのだけれど。。
トカゲの食事は肉ばかりではなく、人間の足ほどもある昆虫の場合もある。あるいは小さな昆虫を桶一杯に与えることもあるのだが、精神的にきつい。
ヘリクルが、生きたままの小さな昆虫を彼女の体にまぶして、ラッケルタにちろちろと舌で食べさせたことがあった。
気が狂いそうだった。
なぜあんなことを思いつくのだろうか。人間と言うのは。
用意した肉の塊をぺろりと飲み込み、小さく尻尾を震わせるラッケルタを見て、少し落ち着く。
彼女――そう、ラッケルタもメスなのだが――も、忌まわしい主が眠っている時間は少し気が休まるようだ。
奴隷少女と奴隷の魔物とで、静かになった屋内に丸まって眠る。
「いつか……」
こんな生活が終わる日が来るのだろうか。
それは命が終わる時なのかもしれない。
だとしても、今よりは良い。
唾棄すべき人間の主と、境遇を同じとする魔物の世話をする清廊族の女の名は、ネネランと言った。
※ ※ ※
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