第一幕 68話 イリアの選択
「……」
もうやめて。
嫌だ、いやだ。こんなのは嫌だ。
聞きたくない。
なぜこんなことをしている。
なぜそんなことをする。
聞きたくない。
聞きたい彼女の声だけれど。聞きたい彼女の嬌声だけれど。
聞きたくない。
イリアは耳を塞ぎ、目を塞ぎ、木陰でうずくまっていた。
塞いだ手の厚みなどほとんど意味はない。
イリアは斥候だ。
耳が良い。
こんな時に自分の技能が、自分の特性が嫌になる。
待てと命令された。
マルセナに命じられた。
だから待っているけれど。
(あの男……絶対に殺す)
イリアの愛しいマルセナに何をしているのだ。
わかっているけれど。わかっているけれど。
「……」
森に響く愛しい嬌声は、イリアの心に昏い殺意を募らせる。積もらせる。
降り積もった殺意は、心の底で腐葉土のように熟していくようだった。
※ ※ ※
「言ったはずですわ。あの勇者のお坊ちゃんより下手糞ってことはないでしょうと」
「だからって、あんな……」
「イリア」
殺意交じりに不満を言うイリアに、マルセナは艶やかに嗤う。
「どうせ同じことなら、わたくしだって楽しみたいですわ」
「……」
イリアの不愉快など、マルセナには関係がない。
それは確かにそうなのだけれど、イリアの殺意は消えない。
「それよりも、決めましたの?」
「本気で言ってる……の?」
マルセナの手には、今までなかったものが握られていた。
黒い帯のような。
「……呪枷を……黒い呪枷を、私に……?」
「何でもする。そう仰ったのは貴女ですわ」
そんなことの為に、それを手にする交換条件で、あんなことを。
提案したマルセナは異常だ。
相手が呪術師だと知って、そんなものを譲れだなんて。
それを聞いた呪術師も異常だ。
面白いから代償があればいいだろう、だとか。
「ねえ、マルセナ……本当に、何でもする。私は貴方の奴隷扱いでもいいの。だけど」
「なら問題ありませんわね」
「そんなものなくても! なくても、ちゃんと……ちゃんと、誓うから。女神に誓って、貴女に従うから……」
信じてほしいと、再度繰り返す。
何度も繰り返す。私の愛を信じてほしいと。
呪枷などなくても、イリアはとうにマルセナに忠誠を誓っている。隷従しているつもりがある。
黒い呪枷をつけられる人間など、よほど許されぬ悪行をした者だけだ。卑奴隷と呼ばれる死刑に等しい刑罰を受けた犯罪者。
もしくは、金も分別もない主に飼われている影陋族か。
白い呪枷を刻むよりは、黒い呪枷の方が安価だと言われる。
そんなものをイリアに着けろと。
「わたくし、人の言葉は信じませんの」
「マルセナ……」
「どうしてもイヤだとおっしゃるのなら、そうですわね。この先は別々がよろしいのではなくて?」
イリアの視界に、少し離れた場所で成り行きを見ている濁ったローブの男が映る。
別々。
その場合マルセナは、あのような汚らわしい男と行動を共にするのだろうか。
「マル……」
「イリア」
なお言い募ろうとするイリアに、マルセナが距離を詰める。
イリアの頬を撫で、つま先で立って唇を近づけた。
「……あぁ、マルセナ」
とろける。
愛しいマルセナの体温を感じて、とろけてしまう。
「他に、選択肢がほしいとおっしゃるの?」
「……」
「わたくしの奴隷として目に見える形で従う。それ以外の選択をしたいと?」
「だから……そんなものなくても、私は……イリアは、貴女の奴隷です……」
「可愛らしいことを」
呪枷を手にしていない方のマルセナの指が、イリアの唇に触れた。
ふっと緩んだイリアから、マルセナが一歩引いた。
「それでは」
一歩引いた提案を。
左手に呪枷を下げて、右手で自分の首を示す。
「イリア、貴女が……」
「……?」
「貴女が、わたくしに、これをつけるか。どちらがよろしいかしら?」
両手を広げて、どっちを選びますかと嫣然と嗤った。
「ま……る、せな……?」
何を言われているのかわからない。
都合が良すぎて、あまりにそれはイリアの欲望を完璧に満たしすぎて。
そんな選択肢があることが、理解できない。
「今なら、わたくしからこれを奪い取って、わたくしを押さえつけて、無理やりでもわたくしの首にこれを嵌める。そんなことも出来るのでは?」
出来るの、では?
「……」
可能性を示されて、あまりにその可能性が魅力的すぎて、言葉を失う。
マルセナを隷属させる。
考えもしなかった。
なんていう素晴らしい提案なのだろうか。
いや、イリアは決してマルセナにひどいことをしたいわけではない。
むしろ、マルセナには自分を傷つけるような、自分を卑しめるようなことはしてほしくない。
先ほどのような。
マルセナは病んでいる。
他人を信用できず、自分のことしか見えていない。
同時に、ひどく自分を安く見積もっているというか、自分の体さえ手段の一つのように軽々に扱うことがある。
勇者シフィークに対してもそうだった。今の呪術師に対してもそうだ。
おそらくイリアの知らないところで、もっと別のこともしているのだろう。
マルセナは、どこか壊れてしまっている。
マルセナはマルセナ自身を大切にしない。
イリアがどんなに願っても、聞き届けてくれることもない。
けれど。
――呪枷があれば。
それがあれば、マルセナを守ってあげられる。
イリアの意志で、マルセナの身を、いずれはその心も、守ってあげられる。
命令は絶対だ。マルセナが傷つくようなことを彼女が選ばないようにすればいい。
素晴らしい。
これこそがイリアの望む答えだ。
(……)
マルセナが、イリアの言葉に絶対服従するというのなら。
その身を、自由にすることも出来る。
イリアがマルセナの体を堪能することが可能になる。隅々まで、好きなように。
マルセナに、イリアの欲しいところへ口づけをさせることも。
あのとろけるような舌で、もっと深い……
(……違う)
ダメだ、違う。
それは愛ではない。
「私は、貴女を愛しているだけなの。そう言ったわ」
嘘偽りではない。
それを証明したい。
「おっしゃいましたわね」
マルセナは動かない。
右手と左手を広げたまま、イリアの答えを待つ。
(呪枷を……マルセナにつける)
そう決めた。
それがイリアが示せる愛だ。
(呪枷をつけて、何も命令しないで外す)
そうすればいい。
イリアが心からマルセナを愛していると、わかってもらえるように。
それが正しい答え。
イリアの真意を伝えられるたった一つの方法。
きっとマルセナも、イリアの言葉を信じてくれるようになるだろう。
距離は近いし、マルセナは杖を持っていない。今は完全にイリアの間合いだ。
だから彼女も言ったのだ。選べと。
大人しく呪枷を受け入れるか、無理やり奪い取るか。
「本当に、好きなの」
「……ええ、そうでしたか」
マルセナが笑った。
イリアの大好きな微笑みだった。
※ ※ ※
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