第一幕 63話 駆けた日々_1



 走っていた。


 思えばずっと野山を駆けていたような気がする。

 今よりずっと昔。多くのことを知り、様々なものを感じる前は、ただ走っていた。


 生きる為に走っていた。

 己より強い生き物から逃げることもあった。


 四本の足は山を駆けるのにこれ以上ないほど適していたし、また走ることで生を実感した。


 ひどく清々しいほど晴れた日に峰を駆けると、鳥でもないのに大空を舞っているかのような気分にもなれた。

 嵐の中を駆けると、己も嵐の一部なのだと思った。



 ある時、気が付いた。

 己が他の魔物と違うということに。


 その瞬間は唐突に訪れたような気もしたし、薄々感じていたことがゆっくりと明らかになっていったようにも思う。


 それからは、少し変わった。


 ただ走るだけで爽快な気分になっていたそれまでと違い、何をしているのかと考えるようになった。

 長く生きて、何を長く生きているのかと考え、答えのない思索をしながら歩む。

 そういう日々を、いったいどれほど続けたのだろうか。



 今思えば、そんな日々のことはあまり思い出さない。

 思い出すのは、気まぐれに拾った清廊族の娘のことばかり。


 最初の頃の苦労や失敗は、今思い出しても情けない。

 赤子など、同じ系統の魔物の赤子のことも知らない。

 知識だけは拾えたが、知識と実際とではまるで違った。


 本当に、ただ長く生きてきただけで何をしていたのかと。


 魔物と違い、庇護する者がいなければ生きていけない貧弱な生き物。

 どういう経緯でも託された以上はどうにかしようと思い、まともに言葉にならない赤子の感情を、真ん中の角で受け止めながら手探りに進んだ。


 食べ物の世話。汚れたり破れたりした衣服を繕ったり洗ったり。

 次第に大きくなっていく赤子に、自身の名前をエシュメノだと教えたが、最初はなかなかうまく喋れなかった。


 熱を出した時には薬になる植物を探して、だがその苦さに大きく泣かれた。

 山や森には食べられる草花が多かったが、冬になるとそれらも減った。


 魔物の肉を食う為に、あまり得意ではない炎の魔法を使うことを覚えたりもした。エシュメノに生肉は食べさせられない。



 エシュメノが大きくなり、自分でも魔物を狩ったりするようになった。


 つい、良い所を見せてやろうとエシュメノよりも大きな獲物を狩って、不貞腐れたエシュメノが家出したこともある。

 どこに隠れているかなどすぐにわかったが、すぐに見つけたらまた拗ねてしまう。

 仕方なく、探している振りをしながら時間を過ごして、眠ったエシュメノを迎えにいった。



 うまくいかないことも多かったが、いつもエシュメノと一緒だった。

 思い出は、全てエシュメノと共にある日々だ。


 そうだ。

 今ならわかる。

 己が生きてきたのは、この子の為だったのだと。



 最初からそう決まっていたわけではない。

 エシュメノがくれた。

 ソーシャが生きる意味を、生きてきた意味を、エシュメノが与えてくれた。


 生きる理由ができた。

 無為に思索して過ごしていた日々は何だったのか。


 生き物なのだ。己の子の成長を喜びと感じるのが自然な営みだと、当たり前のことをエシュメノに教えてもらった。

 たとえ血の繋がりなどなくとも、ソーシャはエシュメノの親であり、エシュメノはソーシャの子だった。



 そんなことばかりを思い出す。

 そんなことしか思い出さない。


 幸せだった。


 ソーシャは、エシュメノと共に歩み、駆けてきた日々を、幸せなのだと知ることが出来た。




「ソーシャ! ソーシャ!」


 気が付けば、川のせせらぎと共にエシュメノの泣き声が聞こえる。

 駆けてきた。

 力を振り絞り敵を撃つ魔法を放って、エシュメノを無理やり担いで駆けてきた。

 その間もずっと呼びかけられていた。


「ソーシャ、しっかり! エシュメノが薬草取ってくるから」


 山で怪我をした時に、普段なら魔法で癒してやれた。

 だが、いつかエシュメノがソーシャから離れて暮らす時の為に、有用な植物などのことは教えていた。

 覚えているのなら、教えたことは無駄ではない。


「こんなの、すぐ治るから……エシュメノが治すから」


「トワ!」


 他の者の声も聞こえる。

 駆けてきて、彼女らの所に辿り着き、足が止まったのか。

 エシュメノを託せる相手だと。


 後ろから追ってきたのは、戦いの場にいた者たち。

 やむを得ず空間破砕の魔法に巻き込んでしまったが、無事だったようだ。



「ルゥナ様! これは……」

「話は後です。トワ、ソーシャを癒してください」

「はい……ですけど……」


 遠慮がちに、後ろ脚の辺りに手の感触が触れる。

 そのまま少し暖かい感触が、腹に当てられた。


 痛みは、なかった。



「む……う、これが……」

「それを……」


 彼女らが戸惑う気持ちはわかる。

 理解している。



「ルゥナ、ソーシャを……」

「わかっています、アヴィ。ですが……」


 そうだ、わかっている。

 今の自分の状態など、己がよくわかっている。



『エシュ……メ、ノ……』

「ソーシャ!」


 喉の近くの空気を振動させて喋る魔法も、すっかり使い慣れた。

 壱角の特性でもある程度の意思疎通は出来るが、エシュメノの声を聞くのは嫌いではない。


 山々に響き渡るエシュメノの声は気持ちが良い。



これ・・を……』

「うん」


『……お前の手で、抜いてくれ』

「……うん、わかった」



 私の体を貫くそれを、エシュメノの手で抜いてほしい。


 濁塑滔の気持ちは、今ならよくわかる。

 それしかないのなら、誰もがそうするだろう。子を愛する親であれば。



「エシュ――」

「アヴィ!」


 濁塑滔の娘たちはわかっている。

 止めようとした。

 そして、それを止めた。



「……アヴィ、だめです」

「でも……だけど……っ」

「駄目です」

「だって」


「聞き分けなさい!」


「っ!」



 そうだ。

 彼女らの葛藤と悲痛な想いはわかる。

 同じことを経験してきているのだから。


「母さんの、望みです……聞き分けてください」

「……」


 そんな彼女らだから、エシュメノを託せる。



 エシュメノの手が、私の体を貫くそれに掛かるのがわかった。


 力を抜く。

 力が入っていたら、うまく抜けないだろう。


 体を貫いたそれと共に、他の何かも抜けていくような感覚と共に、もう力を抜く必要はなかった。



 もう、力は入らなかった。



「抜けた、よ……トワ、治して! お願い」

「はい……」


 銀糸の娘が、無駄と知りつつも癒しを繰り返す。

 濁塑滔の娘は震えていた。

 こんな光景を二度も見せてしまうとは、少しばかり申し訳がない。



『エシュメノ……感謝する』

「うん、ソーシャ。大丈夫だよ、今……」

『角を……』


 その言葉だけで伝わる。

 抜いた刃を放り出して、エシュメノが顔を寄せた。


 彼女の小さな角と、私の角が触れ合う。


『……』


 伝えられる思いは、選べなかった。


 濁流のように押し寄せる思い出と、温もり。

 これでは私が何を言いたいのか伝わらないだろう。


 だが、それでもいい。

 エシュメノがこの先も生きていけるのなら、それが私が生まれてきた意味になる。


 千年の時を生きて、今日死ぬ。

 理由を持つことも出来ない死などいくらでもあるだろう。


 私は幸せだ。

 わかってくれるだろうか。

 きっと、わかってくれるだろう。



『エシュメノ』

「ソーシャ……?」


『私のため、に……生きて……』



  ※   ※   ※ 



 亡骸は、塵となって風に消えていった。


 天高く聳えるニアミカルム山脈の峰々に舞い、千年の想いをその雄大な風景に飲み込んでしまう。


 残されたのは、嘆きの声と、深緑の魔石と、二本の角だけ。

 捻じれたような深紫の角と、真っ直ぐに伸びる漆黒の角と、それを掻き抱いて泣く少女。


 アヴィが、山の魔物の娘を抱きしめて、共に泣いた。


 エシュメノはアヴィと同じだ。

 本当に、同じになってしまった。


 誰も望まなかったのに。

 それをもたらした敵でさえ、そんなことを望まなかったのに。



「……すみません、ルゥナ様」

「いえ、トワ……私の方が謝罪すべきです」


 トワも泣いている。

 無駄だとわかっていて、彼女に治癒を頼んでしまった。

 頼まなかったとしてもそうしていたかもしれないが、指示したのはルゥナだ。


 涙を耐えられる者はいなかった。



「……敵は?」


 涙目でルゥナに訊ねたのはニーレだ。

 彼女は責任感が強い。ただ悲しんでいるだけではいけないことを知っている。


 先行していた為に、戦いの状況は把握していない。

 ここで嘆いていて大丈夫なのかと。



「あれは……敵も、追っては来れないでしょう」

「そう……」

「来るならば」


 ルゥナの目からも大粒の涙が溢れている。

 先ほどエシュメノが放り出した刃を拾い、それを強く握りしめた。


 あの英雄が使っていた剣を。

 ソーシャの体を貫いたそれを握り締めて。


「……今度は、必ず殺します」

「そう……だね」


 涙でぼやける視界で、遠い山を眺める。


「必ず、報いを」


 天を貫くような遠い峰々は、勇壮な角を持つ獣が駆ける姿のようにも見えて、どこまでも美しかった。



  ※   ※   ※ 

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