第一幕 58話 別の道_2



 東に流れる川のほとりで、先行した荷車を率いるニーレたちと合流した。

 そのまま少し休憩する。


 危険が去ったわけではないが、休息をせずに進めるわけでもない。



 ルゥナは、トワに連れられて川で洗われた。

 汚れた服を脱がされ、履いていた靴などと共に足を洗う。


 まだ全身の力が入らずにされるがままのルゥナに、トワは献身的に尽くすようだった。


 アヴィもさすがに疲労の限界を過ぎていたのか、ソーシャの背中で眠っていた。

 首に抱き着くように眠るアヴィの背中から、エシュメノが覆いかぶさるように抱き着いて眠っている。



「ルゥナ様、これを履いて下さい」

「……」


 体に力が入らない。

 呼びかけたトワを見て、口が半分に開くだけで。


「……もう少し休みましょう」


 そう言ってトワはルゥナの足を易しく揉みほぐすように擦る。


 歩いている時も、膝ががくがくと震えていた。

 トワの手が擦れると、温かい。

 少しずつ血の巡りが戻ってくるようで、その心地よさに身を任せる。



「大丈夫です、ルゥナ様。もう大丈夫」


 優しく語り掛けながら足を擦るトワの手が、少しずつ上に上がってきた。


「……ありがとう、トワ」


 その手を止める。


「まだ疲れているのでは?」


 止められた手とは反対の手を、ルゥナの胸の辺りに添えて顔を寄せた。

 雪のように白い肌と、銀が揺れるような灰色の瞳。


 うっすらと色づく唇が寄せられて――



「もう大丈夫ですから」


 その唇に指を当てて、押し留めた。


「そうですか」


 その指に吐息を吹きかけるように答えて、ふいっとルゥナから離れる。

 油断のならない子だ。



「さあ、ルゥナ様。これを着て下さい」


 そう言って着替えに持ってきた下穿きを、ルゥナの足元に構える。

 穿かせてあげますよ、と。


「……自分で出来ますから」

「遠慮しなくても」

「出来ますから」


 残念、というように口を尖らせつつも、楽しそうに下穿きをルゥナの手に収めていく。


 こんな状況でもめげないというか、なんというのか。

 勇者に恐怖して自失、失禁してしまった自分が情けない。


 とりあえず新しいそれを穿きながら、少しだけトワの態度に心が癒されてしまうことに複雑な想いを抱かざるを得ない。


(下心があったとは思いますが)


 それでも、助けてくれている。


 こんな自分を慕ってくれるのは、やはり最初の口付けの衝撃からだろうか。

 失敗だったかもしれない。


 そういう衝撃的な出来事というだけなら、時間を置けば冷めるだろう。

 ただの一時の気の迷い。そういうことで。




「みんな、大丈夫ですか?」


 ミアデとセサーカは、木の影で二人寄り添って眠っていた。

 わずかな時間の休息でも、眠りに落ちてしまうほど疲弊している。

 あちこちに擦り傷も見える。起きたらもう一度体調を確認しよう。


 ニーレとユウラは先行していた為、少し余裕がありそうだった。

 二人で後方の警戒をしているが、今のところ敵の気配はない。


「ものすっごい爆発の音と振動だったから、心配しました」


 ユウラが言うのはマルセナが使った魔法の衝撃だろう。


「地響きで鳥なんかは全部逃げてったよ」


 激しい戦闘の様子は伝わっていたらしい。

 ニーレもトワが心配だったというが、妊婦や赤子を置いて戻ることも出来なかった。

 彼女はトワとユウラを妹のように見ていて、三者の中では責任感が強い印象だ。


 とりあえず全員が無事。

 勇者を含む人間と遭遇して、この結果は上々と言えるだろう。

 ただ――



「この川沿いでは、東に向かってしまいますね」


 逃げ延びた方角は、山脈沿いに東に向かっている。

 山越えのルートというのがあるわけではないが、本来進みたい方向とは異なっていた。

 この川沿いは、やけに周囲の見晴らしがいい。木々も少なく進みやすいのは確かだが。



『雨季になると水かさが数倍になる。今いる辺りは水に飲まれる』


 かなり平坦で進みやすいと思ったら、川の流れにより出来た地形なのだとソーシャが説明してくれた。

 心を読んだわけではあるまい。ルゥナが辺りの地形を見ていたことに気が付いたのか。



「アヴィを、ありがとうございます」

『……事情がエシュメノと通ずる。見殺しにするにはいささか似すぎている』


 人間に追われ、魔物に育てられた少女。

 確かに似ている。同じだといってもいい。

 背中で重なって眠る二人に、伝説の魔物も思うところがあるようだった。



「ルゥナ様、誰かが……」


 ユウラが指を指すのは、北だった。

 敵が追ってくるのなら西側だと思うが、川を挟んだ北を指差す。


「敵、ですか?」

「どう、でしょうか……素人のような気配ですが、数名……」


 対岸に現れた姿に見覚えがあることに驚く。

 清廊族。ルゥナたちが以前に解放して北の山脈に逃がした同胞だった。



「ああ、あんたたちだったか。良かった」

「あなたたち、どうしてここへ?」

『私だ』


 ルゥナの疑問にソーシャが答えた。


『ニアミカルムは越えられぬ。もうずっと真なる清廊の魔法で閉ざされたままだ』

「真なる……?」

『姉神の魔法だ。本来、このカナンラダを覆っていた魔法だが、今はこの山々に限りその力が残っている』


 山を越えられない。

 ただ険しいというだけではなく、別の力によって。



「ああ、その……魔物さんにそう言われて、川沿いに東に行けって」

『私も黒涎山の異変を確認したいところだった。偶然、山を目指すこの者たちに会ったのでな』


 エシュメノと同じ清廊族ということで、話を聞いて助言をしたのだと。


「でも、このまま東に向かっても……」


 今度は断崖で北部に向かえなくなる。

 ルゥナの不安に、やはりソーシャは答えを返してくれた。



『アウロワルリスは越えられる。いくらか方法がある』


 東の断崖の呼び名を、西部生まれのルゥナは初めて聞いたのだった。



  ※   ※   ※ 



 気づかれていない。


 彼女は油断していないつもりだったかもしれないが、油断も隙も多すぎだ。

 完璧そうに見えて、そういう隙だらけの彼女が愛おしい。

 その迂闊さが可愛らしいし、それでも強がる姿もたまらない。


 今日は最高だ。

 彼女が私の手に引かれるがまま、逆らうことなど考えもできずに従ってくれた。


 粗相をしてしまって汚れた足も、私から見れば汚れなどとはまるで思わない。

 なんて愛らしい姿なのだろう、と。



 状況さえ許せばどこかに連れ出して襲いたいと思うくらいに。

 ああ、私を飼っていた薄汚い人間も、こういう感情を抱いていたのか。


 私は違う。そんな己の情欲ばかりに囚われるのではなくて、彼女のことを心から案じている。


 愛している。

 だから何でも許せる。彼女の言葉も行いも何もかもが許せる。

 私の意に沿わないことでも、彼女がそれを望むのなら喜んで従う。



 だが今日は良かった。最高だ。

 彼女の方が私に盲目的に従う姿に、状況も弁えずに胸が熱くなった。体の芯から熱くなってしまった。

 汚れた彼女の服を脱がせて川で洗っている時など、何度も眩暈がするほどの至福の絶頂だった。


 ずっとこうしていたい。

 危険がまだ遠くないことはわかっているけれど、正直な気持ちだ。



 手の中には、温もりはない。

 湿った感触だけ。


 ちゃんと回収した。回収した。手に入れた。

 彼女が身に着けていたものを。

 


「ああ……ルゥナ様……」


 気づかれていない。私がこれを手にしていることに気付かれていない。


「今は、これで我慢……」


 いずれは彼女の全てを手に入れたいけれど。

 今は、これで我慢しなければ。


 手の中の衣服を大切に握り締めて、愛する彼女の匂いを満喫することだけが、今のトワが手に出来る愛の断片だった。



  ※   ※   ※ 

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