第一幕 57話 別の道_1



「……逃げられちゃいましたけど」


 ツァリセは、北東と南西に首をぐるっと向ける。

 追っていたはずの影陋族の集団は、北東へ。

 ここらで行われていた戦闘行為で使われた魔法の当事者は、南西へ。

 それぞれ逃げてしまった。



「どうしようもねえ、だろ」

「今日のところは、確かに隊長の言う通りです」


 ビムベルクの足元に転がる汚らしい青年。

 いや、汚らしいのではない。汚い。

 所々破れた服もひどいが、臭い。


 何十日も浮浪者をやっていたとしても、糞尿を着衣のままする必要はなかっただろうに。



(……あったのか?)


 事情はわからないが、とにかく悲惨な様子だ。

 スーリリャもその青年を見て顔を顰めている。



「これが……その、噂の勇者なんですかね」

「そう呼ばれてたな」


 噂とはずいぶん違うが、噂を鵜呑みにしてはいけないということか。


 ビムベルクも、場所によっては高潔な英雄騎士だと思われているという。

 西部での話だ。


 現在このカナンラダ大陸にいる英雄は、ビムベルクの他にもう二人。そのどちらも西部では割と悪い方向で有名なので。


 西部はルラバダール王国の勢力ではない。別の国の勢力下ではビムベルク本人の人柄は知られておらず、武名による噂だけでは聖人君子で騎士の鑑なのだとか。



(それにしても、若き勇者シフィークねぇ……)


 今の姿を見れば、狂犬だとか蛮闘士だとか、そういう呼び名の方が似合っているのではないかと思うのだが。


「確かに、勇者と呼ばれるだけの力はありそうでしたから、本人なんでしょうね」


 素手で大地を大きく抉るような攻撃が出来る冒険者は少ない。いても困る。

 見れば、十数人を埋められそうなほどの穴が出来ている。

 ちょっとした噴火口跡だ。



「この人……怖い、です」

「おお、そうだな。ツァリセ、縛り上げとけ」

「触りたくないなぁ」


 上司にやれとも言えないし、婦女子にやれとも言いにくい。

 たとえそれが奴隷のはずだとはいえ、上司のお気に入りの女の子にそんなことをさせられるだろうか。


 渋々、荷物の中の縄を手にして気を失っている汚勇者を拘束する。

 もともと影陋族を捕える可能性もあったので、縄の準備はしてきたのだ。



「わかってると思うが、半端にすんなよ」

「わかってますよ。英雄ビムベルクでも動けないくらいにしときます」

「そいつぁ無理だろ」


 人間の体というのは、力を込めやすい体勢と入れにくい向きがある。


 暴れようとしても筋力を発揮しにくい形に固定してしまえば、英雄ビムベルクとて捕らえられるのだ。

 戦闘力以外にツァリセが買われるのは、こういった雑事が得意な点だった。



 上位の冒険者でも抜け出せないような形で、それを二重に、三重に、さらに重ねて。


「……お前、しつけぇなぁ」

「慎重で入念で丁寧なんです」


 万全の上に万全を重ねて、足首さえまともに動かないくらいに固定したところで満足してみた。


「ふう」

「……縛るの、慣れていらっしゃるんですね」


 また間違った評価をされている気がする。


「ここまでしておけば、隊長でもなければ動けないでしょう」

「お……おう」


 ビムベルクの顔色も暗い。

 ツァリセがビムベルクの副官に据えられている理由を察したのだろうか。



「それで……」


 この後どうしようかと額の汗を拭いかけて、言葉を止めた。

 思わず、言葉を失った。


「……」


 自分の手の臭いを嗅いでみる。


 指の間に、爪に、袖に。

 糞尿の臭いと何か腐ったようなそれらが染みついていた。



「……川まで行きましょうか?」


 一歩、二歩と、ツァリセから距離を取りながらスーリリャが提案する。

 なぜ逃げるのか。さっきはこの手とその手をつないでいたじゃないですか、と。


「……僕はこのままでもいいですよ。いいんですよ」

「いや、わりい。臭すぎて俺が無理だ、川で洗え」

「誰のせいですか」


 汚物扱いをする上司に噛みつきながら、ぐるぐるに縛り上げた汚勇者を引きづって川へと向かうのだった。



  ※   ※   ※ 



「うーん、まだ臭い気がする」


 どれだけ洗っても臭いが取れない。

 むしろもう一体化してしまった気さえする。


 臭いの元である勇者も、川の流れに浸けておいた。

 縄でぐるぐる巻きにしているので洗えないが、とりあえず水で臭いが多少は落ちるではないだろうか。


 

「うぅぅ! むぅぅぅ!」


 目を覚まして呻いているが、とりあえず無視。

 命があるだけでも感謝してほしい。これだけ臭かったら殺されていても仕方がなかったのに。

 人間って、こんなことでも殺意を覚えるのだなとツァリセは初めて知った。



「で、これからどうします?」

「……」


 まるで事情はわからないが、他の冒険者を殺そうと暴れていた勇者を捕えた。

 これはこれで一つの成果として報告が出来る。


 任務としてここに来た以上、騎士団本部への報告は必要だ。

 報告書というのは、その内容よりも、量が大事だとツァリセは思う。

 どうせロクに読みはしないのだから。


 何も見つかりませんでしたという内容を十枚に渡って書くのは、かなりの作文能力が必要だ。

 その点、書ける事実が存在するということは悪くない。

 


「さっきの、清廊族が……」


 スーリリャが口を開いた。


「……これ以上、人間と戦ったり、殺したりするのは……しないように、話をしたい、です」


 難しそうだ。


 あの集団にいた影陋族の戦士は、戦う力がある。

 強大な力を持った魔法使いと戦い、生き延びるだけの力が。


 力がなければ、話も出来るだろう。

 なまじ力があるだけに、人間と戦えるだけの力があるから、話を聞くことをしないのではないか。



「……どっちにしろ追うしかねえ」


 おや、と。

 ツァリセは疑問に思った。

 ビムベルクなら逆の判断をするのではないかと思っていたので。


「たぶん、決裂しますよ」


 だから追わないかと思ったのだ。


 ビムベルクの行動指針はわかりやすい。

 自分が好むか好まないか、という部分が大きく左右する。

 だがそれでも、エトセン騎士団として最低限の一線は守って。


 気に入らないとはいえ、ルラバダール王国所属領内での危険行為は許可しない。

 だから取り締まる。


 逃げた連中が向かうのは管轄外の方角だ。

 このまま放置したとして、この先ならコクスウェル連合の領域に入っていくのだから、後は放置してもいいのではないかと。



 どういう理由にしても、影陋族と戦い殺すことを、スーリリャは喜ばないだろう。

 交渉の余地があるのなら試してみてもいいが、可能性は低い。きわめて低い。

 そんなことはツァリセが言い出すまでもなくわかっていると思うのだが。



「放っておくわけにもいかねえ。ありゃあ危険だ」


 もう少し先の、放置した後の始末が困難になることを危惧したのか。

 コクスウェルの問題だけではなく、後々自分たちに降りかかってくる火の粉だと。


「まあ確かに、あの魔法使いと戦えるだけの力なんて危険ですかね」

「ばか、ちげえよ」


 罵倒もセットで否定された。


「ああ、あれな……あの黒髪の女。あれもまあ相当なもんだとは思うが、そっちじゃねえ」


 思い返しながら、ぼりぼりと頭を掻いた。


「そうか、あの魔物……二角鬼馬の変異個体みたいでしたけど」


 戦う力が弱いはずの影陋族に、なぜか力を貸していた黒い馬の魔物。

 喋っていた。

 伝説に出てくるような高位の魔物だ。



「あれは確かに、放っておくわけにも……」

「っとに、お前は本当にバカだな。戦いのことになるとまるで見る目がねえ」

「ええぇ」

「ま、まあまあ」


 ビムベルクの罵声をスーリリャが宥める。

 事務仕事や雑事が得意なツァリセは、戦いのセンスという話であれば実際にあまり向いていない。

 直感的なビムベルクとはまるで違う。



「え、と、閣下? 何が危険なんです?」

「あの子供……じゃねえのかな。あの魔物の背中に乗ってたやつだ」


 そう言われて記憶を辿れば、確かにあの黒い魔物の背中には少女らしい誰かが乗っていた。

 魔物を飼い馴らしているのはあれだったのか。


「ありゃあ多分、壱角ってやつだろ」

「あ……はい、そうだと思います」


 スーリリャが頷いて、額に手を当てた。


 影陋族に伝わる昔話で、額の中心に角がある影陋族は、同じような魔物と意思疎通ができるとかなんとか。

 御伽噺だと思っていたが。



「あの魔物は、確かに伝説級の魔物だろうよ。でも、それだけなら別にいい。そういう魔物は実際に今も世界中に存在していて、それがどうこうってわけじゃねえ」


 影陋族と行動を共にしていようが何だろうが、魔物が存在する事実は変わらない。

 時にその魔物が荒ぶり、町がいくつか壊滅することがあっても。



「だけどな……あの壱角ってのが、そういう魔物まで操れるってんなら……」

「……」

「仮にだ。もしそういう魔物の中に、他の魔物への命令なんかが出来るような、そういう力がある奴がいたとしたら」



 ビムベルクの想像を聞いて、考えてみた。


 力が弱い影陋族が、大陸に生息する魔物を指揮して一斉に襲い掛かってくるなど。

 その中に、先ほどのような伝説級の魔物が数体でも紛れていたら、どうなるか。


「町が……どころじゃない。国が滅びます」

「大陸の人間全てが滅びるかもしれん」


 先ほどの魔物一匹でも、町を滅ぼすだけの力があるのかもしれない。

 そう思えば、どれほどの危機なのか。



「そこらの魔物を手懐けるってだけなのかと思っていたんだが、見ちまったからな」

「……ですね」


 英雄の危惧は、最悪の事態の想定だが。

 だがなくはない。

 現実に、あの伝説級の魔物は影陋族に味方していた。


「……勇者君のことはともかく、追うしかねえだろ」

「そう、ですね」


 人間の英雄として当然の行動。

 重苦しくなった雰囲気の中、不意にビムベルクがスーリリャの頭を撫でた。


「なぁに、こっちにも伝説を作ろうってやつがいるんだ」

「……閣下?」

「うまいこと話して仲良く平和にってなりゃあ、それが一番だ。そいつは俺にもできねえ」


 希望を、スーリリャに託す。


 あの影陋族の集団を殺さないことも、人間と影陋族が全面対決の道に進まないことも。

 この少女に。


「あ……はいっ!」


 それは儚い希望でしかないけれど。

 敬愛する主に期待をされていると、スーリリャは嬉しそうに頷いた。


 だが、ツァリセの胸中は複雑だった。



(濡牙槍マウリスクレス、持ってくれば良かったか)



  ※   ※   ※  

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