第一幕 50話 壱角の母娘_3



「キス……口づけしても、いい?」


 三角馬獣の背中に乗る少女にアヴィが訊ねる。

 唐突に、ではない。



 ルゥナたちが、先行したミアデたちと合流した頃に、後ろから三角鬼馬が追い付いてきた。

 ソーシャと名乗った。


 背中に乗せられている少女はエシュメノと紹介された。

 他者と話すことが苦手な様子で、会話をする際にはソーシャを介して話している。


 見た目は、斬り揃えることもなく長く伸びた水色の髪に赤い瞳。小さな白い角。

 壱角。

 だから同じ壱角の三角鬼馬と共生しているのだろう。



 後ろを警戒しながら事情をかいつまんで話した。

 彼女らの事情も聞く。


『エシュメノが赤子の時に、山脈の麓にあった清廊族の村が人間に襲われた』


 もう数十年昔のことだという。

 人間の侵略が進み、山脈近くで細々と暮らしていた彼女の村にも魔の手が及んだ。


 村には戦士もいたそうだ。

 山脈には魔物が出る。長い年月、それを狩る仕事をしていた清廊族の戦士は、相応の力を有していた。

 だが数に勝る人間の攻勢に次第に追い込まれ、そうして滅ぼされた。


 多くが死に、生き残った年若い者は人間の戦利品として連れ去られていくのを、ソーシャは山から見ていたのだと言う。



 助ける理由はなかった。

 ソーシャは魔物だ。人間と清廊族の争いに関わる必要がない。


 記憶にある限りの千年の時を破りこの大地に現れた人間という種族。

 貪欲で好戦的ではあるが、少なくとも山でソーシャに勝ることはない。

 放って置いても問題ないかと思いながらも、興味本位でそれらを見ていただけだったと。



 ただその行いは生き物として嫌悪を抱かせる悪徳に満ちており、非道な振る舞いと映った。

 皆殺しにしようかと思った時に。


 清廊族の女が、その背中に矢を受けながら山へと落ち延びてくる。

 ちょうどソーシャがいる辺りに。


 女の腕には小さな赤子が抱えられていて、その手がソーシャを求めるように伸ばされていた。



 壱角。

 まだ言葉も話すことが出来ない赤子のエシュメノは、そうしてソーシャと出会い、庇護されることになった。


 女の命が燃え尽きる前に、涙と共に零した名前。

 エシュメノ、と。

 ソーシャはその時、千年を生きてきて初めて母となった。




『言葉は不自由でも意志は理解できた。幼いうちは柔らかい果実を探すのに手間がかかったものだが』


 ソーシャが言葉を話すようになったのはエシュメノの為。

 元々、この言葉は知っている。清廊族も人間も使うし、古くは魔神と女神から伝わった言葉だ。

 魔物の中でも稀に言葉を話す個体は同じ言語を使う。声帯の造りや地域による訛りでわかりにくいこともあるが。


 風を操ることに長けたソーシャにとって、喉を震わせて言葉を紡ぐことはそれほど難しくなかったのだと言う。

 壱角の共振でも意思疎通は出来るが、エシュメノの将来を考えてなるべく言葉を使っていたらしい。



「キースって、なぁに?」

『口づけのことらしい』

「いつもソーシャとしてるの?」

『そうだ』


 堅い食べ物を食べさせたりする為にしていたそうだが、それが習慣的になってしまった。

 獣の親子であれば、親が噛み砕いた食べ物を与えることは珍しくもない。

 ルゥナから見ても流麗な印象の三角鬼馬だ。親しくしていれば口づけくらいしたくなるかもしれない。



『エシュメノが強くなれるのなら、その方がいい』

「んー、わかった」


 年齢はアヴィやルゥナと変わらないか、もしかしたらもっと上かもしれない。

 だがエシュメノの喋り方は幼い。最初に自分で話さなかったのは、人見知りというか、今までまともに他者と話すことがなかったからなのだろう。


 ひょいっとソーシャから降りるとアヴィの頬に手を掛けた。



「……こんな近くで誰かを見るの初めて」

『生きている者は、な』


 死体なら、見たことがあったと。


「んっ」


 遠慮なくアヴィの唇を奪う。

 あまりに無遠慮で、アヴィでさえ面食らって動けなった。


「ん、む……」


 唇を重ねて数秒、離れたエシュメノがにへーと笑う。



「なんか、ソーシャと違うね」

「そう、かしら」


(至上の口づけなのですから当然です)


 アヴィの唇が他と同じであってたまるか、とルゥナは思うが。

 うーんと考えるような素振りで、くるっと振り返ってルゥナを見る。


「?」

「こっちも」


 一切のためらいもなく近づかれて、ルゥナの足が止まった。

 独特な間の取り方で、対応できない。


 目の前に迫るエシュメノの瞳には、負の感情を一切感じない。ただの興味だけで。



「っ!?」


 思わず目を瞑ったルゥナだったが、鼻先に迫った彼女の息遣いが、それ以上は近付かない。


「……そっちは、だめ」


 アヴィが手を引いて引き留めていた。

 それだけではない。


「だめです」


 いつの間にか近付いたトワが、エシュメノの肩に手を回してルゥナに迫る彼女を制止している。



「だめなの?」

「だめなの」

「だめです」


 そこにルゥナの意志はない。

 いや、意志表示させてもらえるなら、もちろんダメだが。

 ふーんと言ってソーシャの背に跨るエシュメノを見て、忘れていた呼吸を吐いた。



「……ありがとうございます。アヴィ。トワも」


 存在そのものもそうだが、色々と破天荒な子だ。


(けど、得難い戦力になる)


 伝説の魔物と心通わせる清廊族。

 アヴィが万全ではない今、これほど頼りになるものはいない。

 出来るだけ機嫌を損ねないようにしたいところだった。



『珍しい生き物、だな』


 ソーシャ自身のことだろうか?

 疑問に思ったルゥナだったが、ソーシャの目がアヴィを見据えていることに気が付き、頷く。


「アヴィは特別なのです」

濁塑滔だくそとう、か』

「知っているのですか?」


 魔物が、人間や清廊族の言い伝えを知っているものなのだろうか。

 まさか魔物が集まる酒場で、魔物たちの神話が語られているわけでもあるまい。


『姉神……其方らは魔神と呼ぶのだったな。その血から生まれる最も深き魔物の一つ』


 ソーシャが語る言葉に、歩を進めながら全員が耳を傾けた。



『濁塑滔は血溜まりの底から生まれるという。全てを食らい、全てを飲み込む。形を持たぬ黒水のごとき深き魔物』


 母さんのことだ。

 黒い粘液状の魔物。


『際立った力は聞かぬが、あらゆる力を自らの体内に溜められるという特異な魔物。だったか』


「なぜそれを?」

『魔物には魔物の……どう表現したものか。知識の源泉のような意識がある。己の内とも言えるし、全く別とも言える』



 知識の泉。

 言われてみれば、魔物の中には生きる為に必要な知識をどうやってか取得しているものがある。

 卵生で子育てをしない生態で、親から伝わるはずがないのに、不思議と己に必要な知恵を得ているものが。


 中には魔法を使ったりする個体もあるし、星の動きに合わせて住む場所や食べ物さえ変えることも。



『姉神の意識の残滓……魔物は等しく姉神の恩寵を得ているのでな。知れるのは、己の分に収まるところまでだが』

「全てを知るというわけではないのですね」


 魔神の恩寵により、魔物として生きる知恵を拾うことが出来るという話か。

 聞いたことはないが、これほど高位の魔物と話をするということ自体が聞いたこともないので、前例がないだけだろう。


 ニアミカルム山脈には人智を超える魔物がいる、と。

 このソーシャがそれだと、改めて認識した。



『濁塑滔が滅びる時、食らった力の多くが受け継がれるというが……』


 ソーシャはアヴィを見て、三本角の頭を振った。

 その動作が魔物らしくないのも、エシュメノとの暮らしが長かったからかもしれない。


『魔物の特性が引き継がれるなど、全く知られていない。姉神でさえ知らぬこと、か』

「アヴィは特別なのです」

「母さんが、特別だったの」


 それまで黙って聞いていたアヴィはそう言うと、首元の黒いマフラーをぎゅうっと握り締める。

 愛しい思い出を抱きしめるように。


『……そうか、母か』


 ソーシャはその言葉に納得したのか、どこか遠くに向けるように呟き、それきり沈黙した。




「ルゥナ様」


 会話が途切れたところで小走りにユウラが駆けてくる。

 耳元で話しかけたのは、皆を不安にさせない為。


「人間が追ってきます。このままだと」


 妊婦、赤子、幼児を連れて荷車を引いているのだ。

 追い付かれないはずがない。


「先ほどの二人ですか?」


 ルゥナの問いかけに、ユウラは半端に首を振る。


「……人数が多いです。十人以上」


 ミアデ、セサーカ、トワも寄ってきて、どうしようかとルゥナの顔を見た。

 少しだけ、その情報は好材料だと思う。

 その人数なら上位の冒険者ということはないはず。兵士や、そういった部隊だ。


「戦えない者を先に進めて、迎え撃ちましょう」


 握っていた冥銀の魔術杖をセサーカに渡しながら頷いた。


 出来たら手伝ってもらえないだろうか、とソーシャの雄姿を見てみたが、背に乗せたエシュメノの欠伸に目を細める姿に口を閉ざす。

 本当に危険になるまでは、まず自分たちで何とかしよう。



 ルゥナの意志を感じたのか、ミアデがにっと笑って拳を作って見せる。


「任せて下さい、ルゥナ様」


 快活なミアデの笑顔は、厳しい状況でもルゥナの心に力を与えてくれるようだった。



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