第一幕 48話 壱角の母娘_1
ニアミカルム山脈は、天まで届くほどの偉大な連峰。高く聳えるその姿を称える唄がいくつもある。
清廊族にとって聖域の一つでもあり、今は外敵を食い止めてくれる天嶮の要害にもなっていた。
長い歴史の中、その山脈にはいくつかの伝説が伝わる。
深い地の底に魔神の血族が眠るだとか。
龍の姿をした大樹があるのだとか。
人知を超越した魔物が存在するだとか。
山を自在に駆け巡り、嵐を呼ぶと言われる伝説の魔物。
その名の通り、三本角の馬のような姿をしている。黒い体毛に紫の線が走ったような体は、他では見ない毛並みだった。
(
左右の二本の角は、右側が捻じれたような紫色で、左側は真っ直ぐな黒色。
真ん中の一本は白く、あまり大きくはなかった。
壱角、ということなのか。
「……清廊、族?」
その背中から声が上がった。
小さな声が。
「清廊……族……?」
思わず同じ言葉を返してしまったのも仕方がない。
ルゥナとて信じられなかったのだ。
伝説の魔物の背中に少女が乗っているなど。
『そのようだ、エシュメノ』
三角馬獣の喉当たりから、口を動かしたようでもないのに中性的な声が発せられた。
言葉がわかる。
『……いや、そうとばかりも言えない』
視線の先にはマルセナたちがいて、それからアヴィへと続いた。
『
「ソーシャ?」
『およそ
魔物の感覚で、アヴィやマルセナに普通の生き物以外の何かを感じ取っている。
ただの清廊族や人間ではない。
「魔物……喋る魔物とは、また」
身を起こしながら言うマルセナだが、さすがにダメージがあるのかその動きがぎこちない。
手にしていた魔術杖も、今の衝撃で落としてしまっていた。
「壱角……なのですか」
三角馬獣の背中に乗る少女の頭にも、小さな角のような突起が見えた。
額よりやや上に、伸び放題の水色の髪を分けるように一本の白い角が生えている。
『話している時間はなさそうだ。南東から人間の集団が近づいている』
「っ!?」
派手な戦闘音を聞きつけた人間がいる。近くに。
こんな場所にいて、戦闘が行われている場所に近付いてくるとなれば、戦う力がない者であるはずがない。
「アヴィ、すぐに……セサーカ、立てますか?」
「は、い……」
「……」
アヴィは三角鬼馬に目を奪われていたが、ルゥナの言葉を受けて立ち上がる。
セサーカも何とか無事のようだった。
「く、逃がさな……」
『少し、力を貸そう』
立ちはだかろうと、近くに落ちていたショートソードを拾い上げたイリアに向き直る三角鬼馬。
それだけで事は足りた。
伝説の魔物の威容にイリアが竦むのがわかる。
実力が確かなイリアだからこそ、この魔物の力を感じ取れた。
「すぐに、ここを離れます」
ミアデたちが去った方角に走ろうとするルゥナの足元に、冥銀の魔術杖が落ちていた。
※ ※ ※
動けなかった。
自分より頭一つ半ほど大きな馬に見つめられただけで、身動きが取れなかった。
もっと大きな魔物を相手にしたこともあったが、今更そんなものに怯むようなことはないと思っていたのに。
「あれは無理ですわね」
一足踏み込んで見せただけでイリアを硬直させた魔物は、影陋族と共に消えていった。
立ち竦んだままのイリアを慰めるつもりがあったのか、ただ事実を言っただけなのか、マルセナは言いながら落ちていた魔術杖を拾う。
粗末な木の魔術杖だ。
安物で、使い古されている。
マルセナの魔術杖は連中に持っていかれてしまった。
手に入れたショートソードも、どこにでもありそうな簡素な造りの使い古し。
ないよりはマシだが。
「わたくしたちも身を隠しましょう」
「……」
「女二人、こんな場所で何もない……そう言えるほど魅力がないわけではないですわ」
もちろんマルセナはそうだ。
どういう人間が近づいてきているにせよ、乱れた姿のマルセナを見れば獣欲に衝き動かされ襲い掛かってくることも考えられる。
イリアの考えとは別に、マルセナの言葉と視線が向いていたのイリアの顔。
「あ……」
心配してくれたのはイリアのことだ。
イリアが襲われ、辱められることを心配して。
「……」
マルセナはそれ以上言葉にせずに歩き出した。
その後ろを追うイリアの足取りは少し軽い。
戦いでかなり消耗した所に魔物が放った魔法を受けて、愛用の魔術杖も失った。
けれど、それとは別に、二人の間を繋ぐ何かが手に入ったのかもしれない。
イリアは自分の考えに、恥ずかしさと嬉しさの両方に頬が緩むのを耐えられなかった。
※ ※ ※
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