第一幕 44話 獣の牙、獣の目_2
「ルゥナ!?」
「くっああああぁぁぁぁぁっ!」
普段なら躱せたはずだった。
ルゥナの力なら、倒すまでは至らなくても対処できるはずだったのに。
アヴィから標的を変えて横に飛んだラザムに対して、ルゥナは動けなかった。
腿に、かぶりつく。
ルゥナの太腿に、ラザムの涎に塗れた牙が突き立てられ、鮮血と共に白い肉を食い千切った。
「ぐぅ、ああああぁぁぁぁっ!」
悲鳴を上げる。
肉を食い千切られる経験などない。
激痛に悲鳴を上げて倒れた。
「ルゥナ!」
「ジャアッ!」
ルゥナの上で肉の悦びに震えるラザムを、アヴィが切り払った。
それを受け止め、また飛びずさるラザム。
「ルゥナ! ルゥナ!」
「っく、ぅぅ……」
立てない。
痛みで背筋から汗が吹き出し、脳が痺れるように警鐘を鳴らしていた。
「ルゥナ様!」
駆け寄ったアヴィとトワがルゥナを抱き起すが、痛みで返事ができない。
アヴィはトワにルゥナの体を預けると、ルゥナの手から落ちて転がっていた魔術杖を拾い上げ、謳い上げた。
「冷厳たる大地より、
アヴィの詠唱に従い、大地が凍り付いた。
先ほどのルゥナの魔法とは違い、ラザムの足元に集中して、輝く氷柱が立ち上がる。
「じゃっ!?」
両手を地面についていたラザムは、足も手もその氷の柱に囚われ、胴体から上の顔のみを動かして己の状況を確認しようとする。
氷の枷で四肢を大地に繋がれて。
身動きが出来ない四つん這いの状態のラザムを、魔術杖を放り出した素手のアヴィが見下ろす形で立った。
拳を振り上げる。
「んっ!」
「ぐゃっ!」
「ふっ!」
「ぶぇっ」
「っ!」
「びゅぶっ」
右に、左に、右に。
アヴィの拳が振るわれ、ラザムの顔が歪みを増やしながら左右に揺れていく。
全力ではない。
殺さないように加減をしながら、出来る限りの苦痛をこの男に与えようと、アヴィは拳を握っていた。
「あ、アヴィ……」
「動かないで下さい。ルゥナ様」
トワはそう言ってルゥナの服をずりおろす。
ややゆったりとした膝丈の腰穿きだったが、今しがた右側が食い千切られて血に染まっていた。
「今、私が……」
トワのグレーの瞳が妖しく光り、傷ついたルゥナの腿に頬ずりするように顔を近づけていく。
痛みに震えるルゥナには抗えない。痛みとは別の汗が浮いてくるような気もした。
「癒して、差し上げますから、ね」
トワの舌が、ねっとりとルゥナの腿に這わされていくことに、抗えない。
体を苛む痛みが、トワの舌の感触によりさらにはっきりと強く、痺れと共に意識が曖昧になる。
痛い、痛い、痛みがじんわりとした疼痛に変化しながらルゥナの心に侵食していくのを感じた。
トワの手がルゥナの脚を絡めとるように回され、肌を撫でる。
「ね、ルゥナ様……」
霞む視界の中で笑うトワの声も、ルゥナの脳を侵食していくように響きながら。
くるくると、目が回りそう。
※ ※ ※
アヴィが殴っているうちに、獣は痛みからか自分の意識を取り戻したようだった。
「あぶぇ、やめ……げぶっ、たす、べっ……」
氷漬けになり四つん這いのまま、何度も、何度も、命乞いの言葉を途切れ途切れに。
淡々と、その命が失われるまで殴り続けるアヴィを、ミアデはただ見ているしか出来なかった。
「アヴィ様……」
「……」
既に事切れている男を殴り続けるアヴィに、ミアデはそっと声を掛けて、背中に手を触れる。
「もう、それはいいですから……ルゥナ様を」
ミアデの言葉を受けて、はっと我を取り戻したように振り返る。
露わにされたルゥナの脚に縋りながら、とろけた表情を浮かべているトワ。
振り返った後に一瞬顔を顰めたが、ルゥナの脚に傷がないことを見て安堵したように息を吐いた。
「……うん」
「大丈夫です。トワが癒してくれたみたいで」
「うん」
痛みで朦朧としていたルゥナが覚醒するまでアヴィはその傍に立ち尽くしていて、ミアデはとりあえず荷車で待機していた仲間たちに先に進むように促した。
トワに治癒の力があったのは幸いだった。
アヴィと同じように舐めて治すという手法なのは、アヴィから受け継いだ力なのかもしれない。
通常は癒しの魔法だとルゥナは思うのだが。
トワ自身が望んだ力が発現した、ということも考えられる。
飛んでいた意識が戻り、先行したという荷車にミアデも護衛につくように言ってから、下着姿だったことを思い出した。
治癒の為に服を脱がせたのはわかるが、どうもトワには別の理由があるように勘繰ってしまう。
(……いえ、邪推はよくないですね)
破れて血に汚れた服を着直しながら、微笑みを浮かべる銀糸の少女に心中で感謝する。
その口の端に覗かせた舌の妖しい艶めかしさに、身を守るように足の間をきつく閉ざした。
「アヴィ、貴女も……手を、怪我しています」
「平気」
顔面を崩壊させて死んでいるラザムを見れば、何があったのかはわかる。
ラザムは肉体を強化することを得意としていた。彼にとっては不幸な技能だったかもしれない。
中々死なないそれを殴り殺すほどに繰り返したと。
顔を潰すほどに素手で殴れば怪我をして当然だ。
「いけません。トワ、アヴィを治癒なさい」
トワは少し考えるように視線を泳がせてから、
「……はい、ルゥナ様のご命令なら」
「いらない。平気」
無表情で拒絶するアヴィ。
手に着いた血を振り払って、歩き出そうとするが。
「いけません、アヴィ。ちゃんと治しておかないと」
「平気、だから」
「……アヴィ、お願いですから」
この後も何があるかわからない。
治せる傷であれば治して、少しでも万全の状態にしておきたい。
(アヴィの手に傷が残ったら……)
残ってもルゥナのアヴィへの想いは変わらないが、それでも治せるものを放置しておく理由にはならない。
「……ルゥナが、言うなら」
渋々といった様子で、微笑むトワに擦り剝いた手を差し出した。
アヴィの手に舌を這わせるトワの姿に、場違いにも体の芯が熱くなってしまう。
私にその力があれば、いつでもそうするのに。
少しだけ歪むアヴィの表情にも心が揺れるし、癒しながらも微笑みを絶やさないトワに嫉妬を覚える。
(……さっきは、私がそうされていたんですよね)
そんな姿をアヴィに見られていたかと思うと、情けないのと恥ずかしいのとでさらに感情が揺り動かされてしまった。
やはり、恥ずかしい。
「あいつは、もう死んだから」
動揺しているルゥナに、アヴィが淡々と言った。
無表情なその顔でも、ルゥナへの気遣いなのだとわかる。
「もう、心配ない」
「……はい」
アヴィは、ルゥナが委縮して動けなかったことを責めなかった。
元々従わされていた相手を目の前にして、不覚を取った。
奴隷だった時の感情は、全て憤りに置き換わっていたつもりだったが、心の奥底というのはやはり自分ではわからないものか。
「ありがとう、アヴィ」
「……平気」
ルゥナの心を解放してくれるのはいつもアヴィだ。
感謝の言葉と共に彼女に顔を寄せてねだると、そっと唇で応えてくれた。
「つっ」
息を飲んだアヴィに少し驚いてみれば、トワがその手に噛みついている。
「トワ」
「……終わりました」
ふいっと離れるトワは、悪いことをしたと思って逃げているのか、まるで思っていないのか。
困ったものだ。
「……アヴィ」
「うん、ルゥナ」
もう一度ねだると、今度はもう少し熱い唇を感じることが出来て、傷の痛みを完全に忘れさせてくれた。
※ ※ ※
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