第一幕 27話 甘く繋ぐ



 苦しい。苦しい。

 息が満足に出来ない。

 そんな中でも、感じるのは甘い匂い。


 咽せ返るほど濃厚な甘い匂いが、鼻孔と咽喉を埋め尽くして、脳まで溶かすように支配する。



「どうしましたか、そんなことではいつまでも解放しませんわ」

「ふぁ、ぁい……」


 いつまでも、このまま。

 そんな言葉に幸せを感じないでもない。それでもいい。それがいい。


「ま……るへぁ……」

「んっ……」


 足の間で呻いた声は、ほんの少しだけ支配者の心に響いたようだった。




 監禁されている。


 鎖も何もないが監禁されている。

 暴力と、恐怖と、敬意と愛情がごちゃまぜに。

 捕えているのは、最終的には愛情によってだと思う。



(怖いけど……)


 命を助けられた。

 二度も、助けられた。覚えていないだけで三度か。


(心も、救われた)


 冒険者にとって、命の恩人という存在はそれなりに大きく感じられることがある。

 状況にもよるが、特に心が折られた時になら猶更。


 イリアは、勇者と共に歩んだ冒険者だった。



 勇者シフィークと共に黒涎山に入ったイリアは、何度も死にかけた。


 まずは、粘液状の魔物に飲み込まれて。

 次に、イリアごと魔物を切り捨てようとした勇者の剣によって。

 さらには、粘液で湿った彼女の体に吹き付けた猛烈な氷雪によって。



 死を覚悟し、勇者の剣に絶望して、その上で凍えた。

 身も心も傷ついたイリアを拾い上げてくれたのは、それまでイリアが見下していた少女だった。


 マルセナ。

 天才魔法使いと称され、上位の魔法を扱う生意気な少女――だと思っていた。


 凍えたイリアを温めて、切り捨てられた心の傷口に入り込んだのは、それまで自分が内心で蔑んできた彼女。



 再び、魔物の罠にかかったイリアを、またも助けてくれたのはマルセナだ。

 強大な魔法で魔物を打ち払い、崩落する洞窟から水脈に落ちたイリアを助けてくれた。


 山の麓の川辺で意識を取り戻したイリアの心は震えた。



 ――女神の子マルセナは、私の女神だ。


 今までのことを伏して詫び、涙ながらに懇願した。

 貴女の為に生きたいと。



 ひどい傷を負った自分より若年のマルセナに契りを交わして、川沿いを南下した。


 古い小屋があったのは幸いというのか、これも女神の導きというのか。

 傷を負ったマルセナをそこで休ませ、その世話をする。


 それまでの自分の行いを顧みれば、多少の労力などなんでもない。

 マルセナはつまらなさそうにイリアの介護を受けていたが、それでもイリアは喜びを感じていた。


(罪を贖う時間を……恩に報いる機会だったの)


 女神レセナの導きと信じる。



 体調が回復したマルセナは、イリアを支配した。

 共に冒険者として過ごしていた時期にも見え隠れしていた我侭な性分。

 それを隠さず繕わずにぶつけるマルセナにも、イリアは従った。


 愛する人の為であれば、理不尽な要求をそうとも感じない。

 二人の関係は妙な形に変化していったが、イリアに疑念はなく、むしろマルセナがそれに違和感を覚えているようだった。


 畏敬。

 イリアがマルセナに従う理由になっている。




「お腹が空きましたわ」


 ふいっと要求だけを述べられる。


「ふぁ……はぁ、はい……」


 荒い息でそれに応える。

 頬も紅潮しているだろう。まだ頭がくらくらしているが、女神の要望に否という答えはない。


「昨日獲った肉が、まだ……あるから」

「……まともな食事をしたいですけれど、仕方がありませんわね」


 深い溜息。

 マルセナとて冒険者として旅をしていたのだから、高級料理でなければ満足しないというようなことはない。

 ありあわせで、調味料もまともにない状況でも、食べられる物があるのならそれを食べることを否定はしなかった。


「ごめ、ん……なさい」

「……別に」


 謝罪するイリアに、短く答えて横を向くマルセナ。


(優しい……)


 気にしなくていいと、言葉にせずに言ってくれているのだと。

 マルセナの態度をそう解釈して、イリアはふらつく足取りで食事の準備をする。



 外は雨だ。

 春も中頃になってきたとはいえ、雨に打たれれば体力を奪われる。

 中にいても……体力を消耗することもないではないが。


 今日は出かけることはないだろう。

 少し怖いけれど、敬愛する女神と過ごす時間は至福と言ってもいいだろう。

 残念なのは、彼女はこの状況を歓迎していないだろうということ。



(傷痕……残っちゃったから……)


 イリアにはマルセナにどんな傷があろうと関係ないが、本人の心は苛んでいるはず。

 眉の左上に、黒く焼け焦げたような傷痕が。


 マルセナは可愛らしい顔立ちだった。今でももちろん、イリアにとっては世界で一番可愛いと断言できるけれど。

 それでも、年若い女の子が顔に傷が残れば、その心に残る傷も大きいと思う。

 少しでもマルセナの気持ちを癒せたらと、イリアは最大限の愛情を示しているつもりだが。


(まだ、足りない)


 それはイリアの努力が足りないのか、イリアでは届かないのか。

 悔しい。

 マルセナの心の隙間を埋められるのなら、どんな要求にも応えたいのに。



「すぐに準備するから」

「……お待ちなさい」


 くいと、袖を引かれた。

 イリアが振り向くと、マルセナは右を向いた。


「……」


 言葉はない。

 イリアはマルセナの頭を抱えるように抱き寄せ、自分の胸に埋める。

 贖罪の時間が至福だとは、自分は本当に罪深い。

 そんな想いと共に言葉を紡ぐ。


「私は、マルセナのことだけを愛している」


 誓いの言葉を契り、その額左の黒い傷痕に唇を押し当てた。



  ※   ※   ※ 

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