第44話 母さんじゃないけれど_2



 最悪な記憶は、産まれる前のこと。

 そう、生まれる前の。



「うっわぁ、まじ最悪ぅ」


 その声は、とても楽しそうだった。

 言葉とは裏腹に、それはもう最高の娯楽でも見ているかのように。


「……う、ぐ」


 口の中に広がる苦い味。

 汚物の中に這いつくばり、涙で滲む視界には歪んだ人間どもの卑しい笑みが。


「これちょーウケるぅ」


 最悪な記憶。



「ってこれヤバくない?」


 朦朧とした頭の中に響く声に、小さな焦りの色があった。

 何を言っているのかほとんど理解できないけれど。


 それを言うのならもっと前から、彼女らの言葉など知らない言語以上に理解できなかったけれど。



「あー、こいつマジ死んじゃってね?」


 まだ、生きている。

 だから聞こえているのだろうが。

 なぜ生きているのだろうか。



「やばいじゃん。誰か呼ぶ?」


「バカ、それじゃ問題になんだろ」


 それならこれは、別に問題にもならないようなことなのだろうか。

 私の生存や尊厳は、何も問題ではないのか。 



「あー、事故っしょ」


 ……


「事故事故、一緒に遊んでいる最中の事故だって」


「そ、それだよね」



 違う。


「事故ってことなら仕方ないじゃん」


 違う。


「まあそういうことで、全員オッケーだよな」


 違う違う違う。


 これが事故であってたまるものか。


 誰がどう見たって、お前らの人生は終わりだ。

 殺人だ。私は死ぬことでお前らの人生に復讐する。


 ざまぁみろ、クズども。

 ただで死ぬなんて――



「俺ら未成年だからさぁ」


 だから、なんだと。


「人殺しちゃっても名前も出ねえし、なんか保護とか言って学校もサボれんだぜ」


「そうそ。先輩の兄貴がそれだって言ってた。ヤバいことしても記録に残んねーんだって」


 そんな、ばかなことが。



「ええ、でもネットとかでバレんじゃん」


 そうだ、インターネットがある。

 法がどうであれ、こんな事件ならきっと大騒ぎになって、表沙汰になるはず。


「そしたらさ、名前変えれるんだって」


 意味がわからない。


「責任を負う必要もないし、ふとーな不利益とかで理由があれば名前の変更できるんだって」


「マジで? そしたらあたし、こんな古臭い名前変えちゃいたいかも」



 笑い声。

 笑い声。




 この世界は腐っている。

 救えない。


 誰も私を救えない。

 こんな世界に救いなんてない。


 滅びてしまえばいいのに。

 全て滅びてしまえばいいのに。



 けれど、どんなに私が願っても、きっと何も変わらない。

 私が死んでも、何も変わらない。

 この世界は、救われない世界が、ずっと続いていく。


 絶望。

 その絶望が私を殺した。




 最低の記憶。

 あの最悪の記憶を上回る――下回るような行為がこの世に存在するとは思わなかった。


 なぜ私は生きているのだろうか。


 死んだはずだった。

 世界に絶望して、全てに絶望して、そうして死んだはずだった。


 気が付けば、わずかな幼児期の記憶を残して、また底辺を這いずるような日々を送っている。


 以前とは違う場所で。違う世界で。

 なぜ生きているのか。何のために生きているのか。




 奴隷に自由はない。

 死ぬ自由もない。ただ主の命令に従うだけ。


 初めの頃は、幼すぎたこともあり、ただの過酷な労役を課せられるだけだった。


 本当につらかったのは、荒くれものの冒険者三人組に買われて、飼われるようになってからだ。

 女の体を好き勝手にする三人の男どもに嬲られ、酷使される日々が続いた。


 だがそれさえ、その最低の記憶を思えばまだ安い。


 ただの肉体的な虐待だ。そう言ってしまえるほど、本当に想像を絶する醜悪な行為というものが存在するなど、思いもしなかった。




 呪枷と呼ばれる奴隷の印を刻まれると、主の命令には逆らえない。

 呪術師と呼ばれる人間の力が必要で、アヴィの首にはその首輪と呪紋が刻まれていた。


 だからこその、およそ知性のある生き物が考えられるとは思えないほどの悪徳に汚れた命令。



 ――お前も、もっと悦べよ。


 命令に、逆らえなかった。




 死ぬ。

 なぜ生きているのか。


 男にとっては他愛もない戯れのような命令だったのかもしれない。

 だが、これを上回る陰惨な気持ちは他にない。誰かを辱めるという行為の中で、これを超えることができるはずがない。



 言葉にならない。

 私は、あの時に死んだ。


 そう思って、あとは体が死ぬまでを待つだけの日々だった。



 そんな記憶でさえどうでもいいと思うような、そんな悲しみがあるだなんて、思わなかったのに。



  ※   ※   ※ 

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