第38話 人の魔手_2
近付いてくる。
水音で少し察知するのが遅れたが、人間が近づいてくる音が聞こえていた。
(なぜだ?)
ゲイルたちは痕跡を隠しながら人間の入りにくい場所に潜んでいる。
だというのに、人間の気配が近づいてくるのはなぜか。
真っ直ぐに――洞窟は直線的ではないので進行ルートとしては真っ直ぐではないのだが、感覚的にはかなり真っ直ぐに。
(あんまり直線的で、反対側に出ているみたいだけど)
ゲイルたちが通ってきた道ではない。別のルートから、ゲイルたちが潜む場所に近付くように足音や話し声が聞こえていた。
つまり、足跡や痕跡を辿っているわけではない。
(なんだ……? 呼吸だとか、生体反応だとか?)
生命を感知する魔法のようなものがあるのだとすれば、痕跡を無視して直線的に向かってくるというのもわかる。
おそらくその場合、感知されているのはアヴィということになるだろうが。
だからと言って見捨てるはずもない。むしろそれなら一層、一緒にいなくてはならない。
(でも、その位置からならここに来るのは無理だな)
ルートが違うせいで、近付いてはいてもゲイルたちの潜む場所に進める道がない。
目的地は見えていても道がわからない、という状況。
(洞窟の中で良かった)
地の利があるということに感謝する。
ゲイルの緊張が伝わっていたのか、アヴィも敵が近いことに気が付いていたようだ。
体を強張らせて剣を握っていた。ゲイルはそっと背中を擦るように動いた。
(怖がらなくていい。大丈――)
――ヅッガアアアァァァッッ!
地響きが響き渡った。
ゲイルたちが潜む崖の平台から見て、対岸側の岩壁から。
崩れた岩や土が、下を流れる水脈に落ちて大きく波を立てた。
その轟音に洞窟全体も震える。
連鎖して崩れ落ち続けていく他の土壁の向こう側に、今まで繋がっていなかったはずの通路がぽっかりと。
「そこにいます。光よ!」
女の声。
そして辺りを照らす眩しい光が、ゲイルとアヴィを闇の中に照らし出す。
誰も来ないはずの洞窟の奥に潜んでいた一匹と一人を。
「あれは僕が――」
彼が言い終わる前に、大男が大きく跳んでゲイルたちに襲い掛かってきていた。
「見つけたぁ!」
(滅茶苦茶しやがる!)
無理やりこじ開けてきた。
道のない場所を文字通り切り開いて、強引に目的地を目指す。
力があるから出来ることだとは言えるが、あまりにも無茶だ。こんな洞窟の中で。
「こいつ!」
ゲイルの体から飛び出して迎撃するアヴィ。
拳を握って打ち付けてくる大男に向けてアヴィが剣を振るった。
生身の拳と刃がぶつかり、金属音のようなものを鳴らしてアヴィが押し返された。
すぐ後ろにはゲイルがいるし、その後ろは地面がない。
今なお崩れ落ちる対岸の土砂のように下を流れる水脈に落ちてしまいそうだ。
広い足場ではないので、他の人間は襲い掛かってこなかった。
「……俺の」
大男の気味が悪いほど充血した目がアヴィの体を舐め回すように凝視する。
薄着なので少女の肌の露出が多い。
(この変態野郎。うちの娘を)
殺意が湧くが、今はそれどころではない。
「ぬぉぉっ!」
「くうっ!?」
小さな体を掴まえようとする大男に向かって斬り払いながらバックステップするアヴィ。
その刃を、大男の拳が再びはじき返した。
(逃げる)
押し返されてゲイルと肉薄していたアヴィを取り込み、後ろにずれ込んだ。
「あっ」
アヴィの小さな声と共に、どぼんと。
落ちる瓦礫と共に水の流れに姿を消すゲル状生物とそれに取り込まれた少女。
人間どもは、とりあえずすぐに追ってくることはなかった。
※ ※ ※
エントランスで。逃げた魔物の追跡に移る前のこと。
ついている、というのはこういうことだ。
イリアの体に付着していた粘液。凍りかけていたゲルが、体温で再び溶けてぬめりを取り戻す。
決して清潔そうには見えないそれを手に取り、マルセナは笑顔を浮かべた。
いつもの、考えの足りない純真な少女の笑みを。
「これで追えますわね」
「あ、ああ……」
答えるシフィークの表情が少し引き攣っている。
おっといけない、ここは少しは忌避感を示すべきだったか。
悍ましい魔物の体液などを手に朗らかな笑顔を浮かべるのは奇妙だったかもしれない。
(つい、ね)
目的に近付く実感を手にして、思わず素の笑顔を浮かべてしまった。
どうせ汚いものに触れるのは慣れているのだ。
愚かでどうしようもない勇者様の欲求に応えている時の嫌悪感と比べたら。魔物の体液程度はどうということもない。
(お前の体液と比べたら何でもないのですよ。こちらの方がまだ愛おしいくらい)
マルセナの掌でぷるりと揺れるその粘液に、いっそ口づけでもしたいくらいだ。
さすがにそんな姿を見せたら、洞窟という環境で気がふれたのかと思われるだろうが。
そっと目を閉じて呪文を唱える。
目を閉じたのは集中の為ではなくて、変な方向に高まる気持ちを静める為だったが。
「分かたれた血肉よ、その連なる枝を示せ」
ねっとりと、マルセナの手から粘液が浮き上がる。
浮き上がったその小さなゲル状の物体を薄く光る球体が包み込んだ。
水晶球の中に小さなゲル系モンスターを封じ込めたようなものを作ると、その球の中でゲルが一定の方向に進もうと泳ぐように、もがくように。
「……あちらの方角ですね」
残った血肉から元の主を探し出す魔法。
迷子を捜すことも出来るし、こうした探索にも使える。あまり一般的な魔法ではないが。
「この量だと持って三日程度だと思います。この洞窟の広さはわかりませんが」
「急ごう」
シフィークはそういうと思っていた。
彼としては、せっかく見つけた神話級モンスターを逃がしたくないという焦りがあるだろうから。
急かされた形になるラザムだが、彼は彼で目的があるのだから別に不満はない。
足の傷は魔法で治癒したようで問題なさそうだった。
「で、でも……」
問題があるのはもう一人の方。
粘液塗れになったものの、それによる肉体的なダメージはない。
斬られそうになったことも防いでいた、
肉体的なダメージというのなら、その後の氷雪を吹き付けられたことだが、それもマルセナが回復した。
(心のケアまではしていませんけれど)
ダメージが大きいのはそちらだが、そんなことをシフィークが思いやるはずもない。
彼にとっては自分の小間使いや道具であり、気が向いた時に欲求を吐き出すだけの相手。
勇者様にとってはそうでも、その相手も一人の人間なのだから、一人の女なのだから、言いたいこともあるだろう。
このまま進むと言われて完全に気後れしているイリアに、シフィークは苛立ちを隠せない。
「あ……」
不満を言いかけたイリアが恐怖の表情を浮かべる。
その顔は、気の進まない作業を押し付けられる時の影陋族の奴隷と同じ。
「だけど、洞窟の道は……」
苦し紛れの咄嗟の言い訳だが、真っ当な意見でもあった。
ルートのわからない洞窟の探索なのだから、セオリーで言えば急いではいけない。慎重に慎重を重ねていかなければ。
だがそれを勇者が認められるか。
「影陋族を使役するような異常なモンスターを放っておけない」
シフィークが意見を曲げないことなど承知の上だったろう。
イリアは俯いて、口を閉ざす。
(さっき見捨てられそうになったことを持ち出さないのは、まさか本当にこれに惚れているのでしょうか)
マルセナには到底信じられないが、やはり人の性癖は様々だ。
まあ責めたところでシフィークが助ける為だったとか何だとか言うだけだろう。事実、それで助かっているのだし。
「一刻も早く追う。道なら――」
すっと姿勢を正して、まるで御伽噺の英雄のように剣を掲げた。
「僕が開く」
そうそう、その調子ですわ。
マルセナは、彼女の思うシナリオを進めてくれる役者に笑顔を湛え頷いて見せた。
※ ※ ※
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