第36話 敗走。前向きに。



 アヴィの意識はない。

 だが呼吸はある。外傷も見当たらないし、首の骨が折れているということもなかった。


 まともに落下していたら、その加速でゲイルの体が四散してアヴィを守ることはできなかっただろう。

 勢いがあったので途中で壁にぶつかり、そこからへばりついてずり落ちるように底まで辿り着いた。



 アヴィの首が無事だったのは、マフラーがあったからなのは疑いようがない。

 鋼鉄より硬い糸を何重にも重ねたこれは、柔軟性と剛性を兼ね備えている。


 人体の急所を正確に切ろうとしたあの男の剣技のお蔭で助かったのは皮肉なものだ。



 アヴィを抱えたまま、崖の底を這いずって進む。

 ただちに飛び降りてくることはなかったが、どういう手段かで来るかもしれないし、何らかの攻撃を受けるかもしれない。


 居場所が知られているのはただ不利だ。ゲイルにとって得意なのは暗がりで身を潜めて襲い掛かること。



(あの清廊族の子がいなければ)


 普通の人間なら見えない暗闇が見えてしまう。

 何も知らなければ、例えばゲイルが暗がりで水溜まりに擬態していたらわからなかったかもしれないが。


 こうして一度認識されてしまった以上、それも看破されると考えた方がいい。そして、見つけたら主に報告する。



(……敵に)


 あの清廊族の奴隷にとっても人間どもは敵のはずだ。見る限り良い扱いを受けていたようには思えない。


 だが奴隷の首輪をしている以上、主には逆らえない呪いのようなものがあるのだろう。洞窟内で彼女の役割は、その目で周囲を警戒して人間に報告すること。



 

「ん……」


 アヴィが呻いた。

 崖の底から這って、いくらか違う場所まで来ている。多少は声を出しても大丈夫か。



「あ……かあさ、ん」


 とりあえず一安心だ。声が出せなかったり体が動かなかったりすることはないようで、やや痛むのか頭を振りながら首を回して起き上がった。

 起きたと言ってもゲイルの体内でだが。


 労わるように、触腕でアヴィの頬を撫でる。

 柔らかい頬を滑る触腕に、安堵するかのように頬を擦り返して、唇に当ててしばらくじっとしていた。



「あいつら、強かった」


 思い返していたらしい。

 相手の隙をついての攻撃だったが、あっさりと対処されて致命の攻撃を食らった。生きているのは運がいい。


 首が折れていなかったのはマフラーのことと同時に、アヴィ自身が強くなっていたこともある。

 だが、それでも届かないレベルの強者。遥かに。


 あの若い男はまだ余裕がありそうだった。他の連中もいて、こちらの手の内を知られていては勝機がない。



「……」


 幸いなのは、彼らは人間だということだ。

 こちらは洞窟内でずっと生活できるが、人間はそうではない。

 洞窟内で身を潜めていればいずれ出ていく。無理に戦う理由はないのだ。


「……清廊族がいた」


 ぽつり、とアヴィが言う。彼女からも見えていたらしい。

 戦いの最中、あの清廊族の奴隷はゲイルに目を奪われていたので、奥から来たアヴィには気付かなかった。


 アヴィの方は、奥に潜みながら彼らを観察していたのだろう。かつての自分のように奴隷として連れられている清廊族の少女に何を思ったのか。



(助けたいのか?)


 だとしても、それは困難だ。現状では不可能と言ってもいい。

 所詮は一匹のモンスターと一人の少女。戦力には限りがある。この状況であの人間どもから清廊族を奪取しようとするのは自殺行為でしかない。


(せめてさっき、あの中の一人か二人でも始末できていたら)


 悔まれる。惜しまれる。

 勝率が上がることもそうだが、探索が困難ということで帰ってくれたかもしれないのに。



 あんな危険な連中にはさっさと消えてほしい。だが洞窟内でゲイルたち以外にあれらに対抗できる戦力は他にない。

 グィタードラゴンや、あの蟻の王カイザーアントでも、彼らには勝てないだろう。


「……逃げよう、母さん」


 アヴィの結論はゲイルの気持ちと同じだった。

 清廊族の子は憐れだが、ゲイルにとって大事なのはアヴィであって清廊族ではない。

 アヴィにとっても、境遇は自分と重なり思うところはあるが、ゲイルの身を危険に晒すことは望まない。



 せがむように、アヴィが手を伸ばした。

 くいくいと、探るように手首を返して。


(?)


 ゲイルが触腕を伸ばすと、それを自分の口元に近付けて唇に当てる。

 口づけという雰囲気ではなく、爪を噛むような仕種で薄い桃色の唇に当てて押し黙った。



(……ごめんな、力が足りなくて)


 本意ではない。

 だが、生きる上では諦めなければならないこともある。

 全てを叶える素敵な力など持ち合わせていないのだから。


(這い回って、逃げ回って)


 それしか出来ない。けれど、それは出来る。

 アヴィを守るためになら、地の底を這いつくばって泥を啜ろうが何の苦でもない。

 ゲイルの粘膜に触れるアヴィの唇は、ゲルの体より柔らかくて、温かかった。



   ※   ※   ※ 



 暗く狭い場所に潜む。

 それはゲイルの得意分野だ。


 いかに相手が異常な戦闘能力を持つ強敵であっても、こと洞窟という環境でゲイルより適性が高いなどということはない。

 五日間、十日間、その数百倍でもゲイルは耐えられる。アヴィも、食べ物を選り好みすることはないので、何とかなるだろう。


 ゲイルたちは洞窟の構造を熟知していて、細い道や人間が入りにくい奥の場所を知っている。

 アヴィの体をどうにか工夫して入れてしまえば、後はそこで息を潜めるだけ。




 細い隙間がある。その先がどうなっているのかと覗こうとしても体を横にして進まなければ先が見えない。


 そうして進んで、身動きが取れなくなりそうな場所まで来ると、唐突に足場がなくなり、数メートル下に落下することになる。

 そこは山の水脈にも繋がっていて、雨が降ると数日は強い水の流れが途切れないような場所だった。



 アヴィの体は決して大きくないが、この数年の間に胸は多少大きくなってしまった。

 隙間の壁に擦って怪我をしないようにゲイルが粘液で緩衝材になりながら、奥へと進む。


 むにゃりと潰れる肉。アヴィはまともな服を着ていないので、壁に引っ掛かるようなことはない。

 そのまますり抜けて、水の流れの手前まで来た。



 そこからはゲイルの出番だ。アヴィの体を包み込み、壁にへばりついてやや上の方の広く平らな場所まで伝いながら上がる。

 これくらいの強度が出せるようになっていて良かった。これまでの生存競争で成長したゲルの体に感謝だ。



 アヴィとゲイルが寝転んでも平気なくらいの場所で、一緒にふへーと力を抜いた。

 ごろごろ、べたーっと。



「……」


 声は出さずに、アヴィがゲイルの体を擦った。

 頭を撫でるような仕種だが、ゲイルには頭がない。


(お疲れ様、ってな)


 ゲイルも同様に、アヴィの頭を撫でた。

 人間たちの気配は近くには感じない。


 あの後、怪我の治療も必要だっただろうし、進むにしても直線的に行けるわけではない。

 あちこち枝分かれして、曲がりくねった洞窟。方向だってどちらに進めばいいのかわからないはず。


 清廊族のアヴィやゲル状生物のゲイルと違い、人間はこの暗がりでは足元もよく見えない。

 ゲイルの這う速度が遅い以上に、彼らの進行の方が遅くなる。



(守りに徹すれば負けることはない)


 ホームグラウンドの利点を活かして、奴らをやり過ごす。


(……あんまり恰好いいとは言えないか)


 無様なのは生まれつきだ。きっとこの体に生まれる前からそうなのだろうが、別に構うことはない。

 強敵と真っ向から立ち向かうという姿勢ではないところが自分らしい。自分らしくてそれでいい。




 緊張が解けて少し眠くなってしまった様子のアヴィを包み込む。


「……うん」


 小さく頷いて、目を閉じるアヴィ。

 その手がまたゲイルの手を欲していて、握った触腕を唇に当てて眠る。お気に入りの人形を抱えて眠る子供のようだ。



 水の流れる音が響く。

 一昨日くらいに雨が降ったのだろう。集まってきた水の流れが強く、少しくらいの声は掻き消してくれた。


(ついてた、かな)


 異常な強敵に遭遇して危機だったが、とりあえず一息つける状況に安堵する。


 アヴィの首は大丈夫だろうか。確認してみるが、昔の首輪の古傷以外はない。

 打撲などで腫れていたりすることもなく、呼吸に合わせてわずかに揺れていた。



「ん、母さん……」


 眠りかけていたアヴィが呻いたので、首を確認するのをやめる。

 別にイヤだったわけではないらしく、にへっと笑ってそのまま眠ってしまった。


 可愛い子だ。

 ゲイルにとってたった一つの宝。

 もう余計なことで悩むのはやめた。アヴィが望まない限り、この子を手放すことはない。ずっと一緒にいよう。



(俺は、お前の母さんかな)


 いつもは心中で否定するそれを、こうして寝顔を包んでいると受け入れたくなる。


(……ちゃんとした母さんじゃないけど、俺なりに頑張るから)


 幸せそうなアヴィの寝顔は、ゲイルがかつて手に入れたことのない幸せの塊で、それだけは決して失わないと固く誓った。



   ※   ※   ※ 


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