第29話 少女と魔物
母さんは優しい。
記憶が曖昧だからかもしれないが、私はこれほど愛されたと実感したことがない。
愛を知った。
暗い穴蔵の底で、言葉も話さないモンスターを相手に、本当の愛を知った。
真実の愛というものの定義が世界にあるのだとして、それが何なのか知らないけれど、私は私にとっての本当の愛を知ることができて幸せだ。
モンスターと戦うのは、少し怖かった。
けれど母さんが見ていて、守ってくれる。私が危なくないように、やや過保護なほどに注意をして。
上手に出来ると母さんが喜んでくれる。
母さんは体を大きく膨らませたりして伝えようとしてくるが、そんなことをしなくても見ればわかるのだ。
機嫌が良い時、母さんの色が少し濃くなる。
黒い色が増して、普段はくすんだ黒色なのが、本当の闇の色のような暗さになっていた。
逆に何か心配事や良くない気持ちの時は少しだけ薄い色になる。
どうやら自分では気づいていないらしい。その色の濃さで私が母さんの気持ちを量っていることを。
(ちゃんとお話が出来たらいいんだけど)
気持ちを推し量れるだけで、きちんとコミュニケーションが取れているわけではない。
不足だと言ったら母さんが悲しむだろう。だから言わないし、実際に十分だとも思っている。
言葉などなくても確かな絆があって、今まで知らなかった愛情をこの身に染みるほどに感じられた。
だから不満などない。ここが私の世界の全てだ。
唐突に、母さんが私に嫌な要求をしてきた。
今までそんなことはなかったのに、急にどうしたというのか。
草を食べろと。
洞窟内ではもう母さんと私で対応できないものなどいない。悠々自適と言ってもいいくらいなのに。
(まるで母親みたいに)
母さんと呼んでいるのは自分なのだから、母親らしい行動をされても仕方がないか。
肉ばかりじゃなくて野菜も食べなさい、と。
野菜というにはいささか、いやどう考えても無理があるのだが。
先日から鼠を掴まえたり何か妙なことをしていると思ったら、こういう理由だったのか。
その気持ちは、やはりアヴィへの愛情に端を発することだと思うので、有難いことなのかもしれないけれど。
(う、うぅー)
目の前に出された草をどうしろと。
食べろと言われているのはわかっている。だが生来あまり植物は好きではないのだ。
「……私、お肉の方が好き」
母さんのことはもっと好きだよ、と言ってしまったら許してくれるだろうか。
それは卑怯かもしれないと思って言わなかったけれど。
「……」
目の前にある、ただの雑草。生。
母さんは元々料理などしない。あるがまま、素材のまま食べてしまうので料理などという概念そのものがないだろう。
苦手な炎の魔法で焼いたら、たぶんこの草はあっさり燃え尽きてしまうだろうな、と。
母さんが悲しむ姿を見たいわけではない。
覚悟を決めて、その草を飲み込むのだった。
※ ※ ※
母さんが妙なことをしている。
あの草を、今度は熱い湯の中でぐるぐると浸しているのだが。
(……まさか、料理を?)
驚いた。
茹でているというか、煮ているというのか。
浮いてきた灰汁を捨てて、食べやすくなるように柔らかく煮ようというのか。
恐ろしいモンスターなのに、どうしてそんな発想が出てきたのだろう。今までアヴィだってそんな料理をする姿を見せたことはない。
(冒険者の誰かの食事風景とか、そういうのを見ていたのかも)
そう考えれば納得できた。
人間は、こんな風にして湯で食べ物をふやかして食べていたという知識があって、それを真似しているのか。
アヴィの為に。
(私の為に、そんな……)
嬉しいという気持ちと共に、困ってしまう。
これでは断れない。逃げられない。
さすが母さんだ。目的を果たす為には相手の逃げ道を潰す手段をよく知っている。
ゲル状の自分では絶対に必要のないだろうことを私の為に、と見せられて拒絶など出来るだろうか。
(……なんて恐ろしい)
モンスターだった。
目の前に、湯気を立てる雑草がある。
出来上がったそれは、茹でたせいでほんのりと匂いが立っていた。むせ返るような青臭さというか。
これならまだ生の方がよかったかもしれない。
「……」
目の前のゲルが、ぷるぷると震えて待つ。
どうかなどうかな、と期待するように。
「……」
逃げ道はない。今試されているのはたぶんアヴィの愛だ。母さんに対する愛の深さを試されている。
その試練なら逃げるつもりはない。世界で私ほど母さんを愛しているものはいない。
「……」
口に入れた。
香っていた青臭さが鼻にまで突き抜ける。
強烈だ。ほとんど日の差さない洞窟に生育する植物なのだから、暗室で育てられたもやし程度の慎ましさはあってもいいのではないだろうか。
(もやし……)
そんなものを食べたのはいつのことだろう。
頭がくらくらする雑草の強い主張に意識が少し別の方向に飛んでいた。
期待して待つ母さんの前で、それを飲み下す。
(……だめだ、しっかりして私)
意識が遠のきそうになる眩暈を抑えて、母さんを見つめ返した。
微笑み――頑張って微笑み、出来るだけ優しく囁く。
「うん……美味しいよ。ありがとう、母さん」
堪え切れずに、左の目尻から涙が零れた。
「わきゃっ!」
飲み込まれた。
母さんの体の色が薄くなったり濃くなったり、激しく感情が揺れ動いていると思ったら、急に飲み込まれた。
残っている雑草を放り出して。
ぎゅうっと抱きしめられて、強く背中や頭を撫でられる。ごめんね、ごめんねと言ってる気持ちが伝わってきた。
わかってくれた。アヴィが無理していることを、このゲル状のモンスターはちゃんと理解してくれている。
(私の為に頑張ってくれて、私のことをちゃんと見ていてくれる)
本当の母親でもここまでしてくれるものだろうか。
わからないけれど、今の私にとってはこの黒いモンスターが本当の母さんだ。
「……本当に、嬉しかったのは、本当だよ」
涙が溢れた。
深い愛情に、とめどなく涙が溢れた。
※ ※ ※
母さんがまた妙なことを始めた。
いつもと違うことを始めるのは、たいていは私に何かを与えようとする時の行動だ。
前回のこともあり、あまり張り切りすぎると心配なのだが。
アリの巣穴だった所まで来て、壁にへばりついて何かしている。
その体から、ぴゅうっと何かが吐き出されてきた。
細い何か。
「糸?」
非常に細い糸だった。黒いのは壁の材質から作っているからだろう。
しばらく続けると、今度はそれらの糸をまとめて作りながら織り合わせていった。
(すごい……リリアンみたいな)
微かな記憶から、その様子を例える言葉を見つける。
黒い糸を編み込むように紡ぎながら、布を作っていく。
その進行は非常にゆっくりで、本当に手作業で編んでいるようだった。
(どこでこんなことを……?)
洞窟に来た冒険者が……いや、有り得ないだろう。
どこの誰が、こんな魔境に来て機織りや編み物などするというのか。
こんな知識をモンスターが持っているとは、理解を超えている。
(それは……まあ、最初からそうなんだけど)
私の常識にない世界でのこと。
ただ単に、捕食した冒険者の服などからこういう形で出来ているのだと理解して、それを模倣しているだけなのか。
そう考えれば納得できないこともなかった。
見かけによらずと言ったら悪いが、母さんはとても理知的で聡明だ。人間の使う技術程度は簡単にわかってしまうのかもしれない。
黒いモンスターが布を織る姿を、不思議な気持ちで見続けるのだった。
下着を作れと言われた時、羞恥心というものを思い出した。
着ている襤褸切れはひどく粗末なものだったし、この数年でアヴィも少し大きくなってしまっている。
奴隷だったときより食生活については良かったこともある。
洞窟内で他に見ている者がいないとはいえ、文明のかけらもない姿で暮らしていた。
母さんがそういうことに気持ちを割いてくれたことを喜びつつ、その気遣いに甘えようと思ったのだが。
「……」
黒いゲルが、地べたにのべぇっと広がっていた。
ダレている。落ち込んでいるのだとわかっている。
頑張ったのに、役に立たなかったと。
私としても、服を作るという行為に喜びを感じていて、ちょっとうきうきと作業に取り掛かろうとしていた。
肩透かしというか、失敗というか。私が残念な顔をしたことが余計に母さんの気持ちを沈ませてしまったのだろう。
「だ、大丈夫だよ。母さん。今までもなかったんだから」
服がなくても生きていける。少なくともこの洞窟なら大した問題ではない。
それより母さんの落ち込み具合の方が心配だ。このままだと溶けて地面に染み込んでしまいそうなほど。
たぶんだが、料理のことで失敗したことを取り戻そうと頑張ってくれたのだ。
私を喜ばせようと。その気持ちだけで充分嬉しいからと言っても、中々わかってくれないだろう。
元アリの巣穴で落ち込む母さんは、少しだけ可愛かった。
代わりにと作った魔物の皮の下着は失敗だった。
柔らかくなるように母さんが丹念になめしたりほぐしたりしてくれて、素材としての柔軟性については十分なものだったが。
(……痒い)
どうもその素材は、あまり私の肌と相性が良くなかったらしい。
触れている端が特に痒い。かぶれている。
かといって脱ぐわけにもいかない。しばらくしたら慣れてくれるのではないかと。
母さんには言ったらまた落ち込むかもしれないと、とにかく忘れてしまおうと眠ろうとしていたのだが。
「え、あっ! 母さんっ!?」
無理やり剥ぎ取られた。
こういう行為は、私を奴隷にしていたあの男どもにもされたことがあるが、母さんのすることが奴らと同じわけがない。
それに、我慢していた私は、そのストレスが取り払われたことを喜んでしまう。
記憶があるわけではないが、汚れたおむつを着けっぱなしにしている時の不快感というのはこういうものだったのだろう。
肌に残る傷痕というか赤く腫れたところを、母さんが癒していく。
「あ、う……」
バレていた。
私が我慢して黙っていることを母さんは知っていて、黙って癒す。黙っているのはいつものことだけど。
(……怒ってる?)
その色が不機嫌な時の色だと知っている。
手強い敵に追い詰められた時だとか、私が何か危険な目に遭いそうな時などの色だ。
怒らせたかったわけではない。心配をかけたくなかっただけなのに。
(……また失敗した)
違うのに。
そうじゃないのに、どうしても噛み合わない。
こんな体じゃなければ、私がこんな体でなくて母さんと同じゲルの体だったら、こんな風にならないのに。
「……ごめんなさい」
その答えは、母さんにはあまり気に入られなかったようだった。
※ ※ ※
上に向かう。
母さんの様子から、侵入者を探しているようだと察した。
人間。
この洞窟に入ってくるとすれば人間の冒険者しか考えられない。
私をそこに連れて行ってどうするつもりなのか。
もう付き合いきれないから人間に引き渡すとか、そういうことなのだろうか。
(捨てられる)
そうではないと思う一方で、捨てられても仕方がないかと思う気持ちもある。
あまりに違う。生き物としての造りが違いすぎる。
私は母さんの負担だろうか。
外は夜だった。
「綺麗だね」
夜空に浮かぶ月が寒々しいほどに美しい。
母さんが作ってくれたマフラーを、少し強めに締めて、母さんと一緒に空を見上げる。
母さんの黒い体にも月や星が反射して、とても綺麗だった。
無限の宇宙が、母さんの中にもあるようで。
「どうして外に?」
母さんが外に出たがるなんて初めてだ。
理由があるのだとすれば私なのだろうけれど、母さんはいつも何も言わない。言えない。
黙って空を見上げているだけだった。
「……母さんは、私が邪魔?」
言葉に出したら、母さんの色が薄くなった。
「私のこと、嫌い?」
色がさらに薄くなって、濃くなって、目まぐるしいほどに変化をする。
わかりやすい。
どうすればいいのかと混乱している。
その姿を見て安心した。
(良かった)
何も言われなくてもわかる。
「違うんだよね」
噛み締めるように。確認するように言うと、母さんの色が落ち着いた。深い黒い色に。
間違いない。
それを確認したら安心して、それだけがわかれば十分で、夜空の下で母さんとお話をした。
「幸せって、どこにあるんだろうね」
そんな風に言ってしまったのは、意地悪だったかもしれない。
母さんが私の為に心を割いて、どうすればいいのかと葛藤しているのはわかっていたのに。
でも不安な気持ちになったのは私も同じだ。
一緒にいられないかもしれないと、不安になった。
幸せの在り処なんて、もうわかっている。私の幸せは母さんの中だ。
他にない。
わかっているのに、母さんにも少し意地悪をしたくて、私のことを掴まえておいてほしくて、わざとそんなことを言ってしまった。
後ろから飲み込まれた時に、思ったのだ。
(……幸せだなぁ)
このままずっと、このままでいい。
だから言った。
――食べてもいいよ。
何か辛い想いをするくらいなら、このまま一緒がいいと。
心の底からそう思って、そう言った。
だけどそれは間違いだった。
母さんは泣いていた。哭きながら私を抱きしめて、強く抱きしめた。
(ああ)
実感する。
(私、いま、幸せだなぁ)
泣いている母さんの体は、私の手では掴まえられないけれど。
それでも、指をすり抜けていく母さんの体を抱きしめて応えた。
「ごめんね、母さん」
バカな娘でごめんなさいと。
そんな私を母さんは、優しく包んでくれるのだった。
※ ※ ※
もっと早く帰るべきだった。
地上になど出るのではなかった。
判断ミス。後悔。取り返しのつかない失敗。
世界は甘くないのだと、ゲイルは知っていたはずだった。
世界は優しくないのだと、アヴィは知っていたはずだった。
※ ※ ※
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