第22話 蟻の王_2
「ギラルァ」
鳴いた。
アリでも、王にもなれば鳴くらしい。モンスターのアリなので普通ではないだろうが。
ぎちぎちと顎を左右に開いたり閉じたりしながら、ゲイルとアヴィを見下ろして空気が掠れるような声を上げた。
その顎から、だらりと涎が垂れる。
(蟻酸、だったか?)
アリや蜂のような生き物はそういう酸っぽい液を吐くことがある。
皮膚がかぶれたり、一定の温度以上で発火したりする危険物だと。
ゲイルの記憶にあるアリとモンスターのこれとは違うかもしれないが、先ほどの異臭はこれだったのだろう。
垂れた涎から同じ臭いがした。
「母さん」
カイザーアントの四本の腕の内二本は剣のように、あとの二本は三本指で何かを掴むような形状をしている。
働きアリとは違ってヤスリのような手はしていない。王の手は、女王と交尾か何かする時に使うのかもしれない。
どうだろうか、大きさだけならゲイルと大差ないが。
(なんっ!)
目にも止まらぬ動きで斬られた。
左右の手で、×印に二回。
速さと鋭さで斬られてから気が付いた。
(……こっちで良かった)
ゲイルの体は斬られても問題がないのだ。アヴィの体と違って。
いつも通り、ぬらっと体液が流れて斬られた箇所が元通りに戻る。
速すぎて、鋭すぎて、おかげで体組織が飛び散らなかった。
(でもこれじゃ手が付けられない)
うぞうぞとゲイルが這い寄ると、カイザーアントはそれを気味悪がって距離を取った。
速い。というか普通に歩いているだけでゲイルより倍以上速いのだからどうしようもない。
「母さんどいて!」
後ろからアヴィの声だが、それに従っていいものかどうか。
それにゲル状のこの体は言われても機敏に動けるわけではない。
(でもまあ、試してみるしかないか)
「真白き清廊より、来たれ絶禍の凍嵐!」
ゲイルの後ろからアヴィの氷雪魔法が放たれる。
間にゲイルを挟んだまま。ゲイルの回避動作は間に合わないが。
(どろっとな)
潰れる。
体から一気に力を抜いて、重力のままにとろけるように地面に流れた。
「ギッ!?」
毒霧でも切り裂いても効果が見られなかった敵に警戒していたカイザーアントは、その唐突な潰れ方に戸惑うように動きを止めた。
そこに襲い掛かる氷の息吹。
「ギギィッ!」
三本指の手で顔を覆って防御姿勢になるカイザーアント。やはり冷却には強くない。
(ナイスだ、アヴィ)
「はああぁっ!」
気合を込めて、氷雪魔法を放ち続けるアヴィ。
顔を覆って防御姿勢だったカイザーアントがだったが、その吹雪を嫌うように剣の手を振る。
振り払われた両手だが、吹雪を切り裂けるわけではない。
(よし、このまま……)
ゲイルは地面に寝ているだけだが、このまま凍り付かせてしまえば――
「リィリリイイィィ」
先ほどまでの声とはまるで違った音が響いた。高く透き通るような。
(何か別の敵が……)
違う。
聞こえるのは間違いなくカイザーアントからだった。
その背中から。
「うっ、うそっ!?」
カイザーアントの背中の羽が激しく振動していた。
その羽ばたきで風圧を巻き起こして、アヴィから吹き付ける吹雪を押し返そうと。
(やばい、今の俺は
地面に広がったゲイルは薄く伸びている。
そこに向かって吹き返される氷雪は、ゲル状のゲイルの体を凍り付かせていった。
(や、やばい……うごけ、な……)
この体になってから、今まで意識が途絶えたことはない。
グィタードラゴンとの戦いの最中に、痛みのあまりに意識が飛びそうになったことはあったが。
アヴィのいじらしい姿に意識が飛びそうになったこともあったが、それはまた別の話だ。
凍えて、意識が薄れていく感覚は初めてのこと。
アヴィが魔法を止めた時には、既にゲイルの意識は夢うつつという状態になっていた。
※ ※ ※
自分の倍以上の体躯から振り下ろされる鋭い剣のような腕を、手にした剣で打ち払う。
右へ、左へ。
小さな体で、必死になって打ち払いながら叫ぶ。
「母さん! 母さん!」
母を呼ぶ声。
こんな穴蔵にお前の母はいないだろうに、懸命に呼びかける。
その小柄な敵を叩き潰そうと振るわれる王の剣。
受けられているのは、その王の剣閃も万全ではないからだ。
動きが鈍い。寒さで体節の動きが十分ではない。だから振るう剣速が当初より遅い。
最初の剣閃は見ていたからだろう。それより遅い剣であれば対応が出来ている。
(さすが、自慢の娘だよ……)
薄れる意識の中でそう思う。
ひび割れる体。
さっきから上から踏んでいる六本の足が、凍り付いた体を踏み砕いていく。
どこまでが自分の体なのかわからない。今の状況をどういう手段で把握しているのかもわからない。
それでもわかる。聞こえている。
「母さん、しっかりして!」
アヴィが、自分を呼んでいることはわかっていた。
(母さんじゃねえけど、な)
埒が明かないと思ったのか、カイザーアントが剣を振るうのをやめた。
一呼吸の溜め。
その瞬間をアヴィは見逃さない。
「だああぁっ!」
彼女の剣がカイザーアントの肘あたりの体節を貫いた。
だが体格が違いすぎる。アヴィの倍以上の大きさのカイザーアントには、穿たれた一撃は致命傷にはならない。
痛みで逡巡することもない。痛覚というものがない生き物。
「ギィィィィィッ!」
カイザーアントの口が細かく動いた。
「シィアァァァァァッ!」
霧吹きのように、その口から異臭を伴うガスのようなものが放たれた。
「くっ!」
突き刺した剣を離して、顔を庇うアヴィ。
吸い込んだら命に関わるかもしれない。特に目や口はアヴィにとって重要な部位だ。
ゲイルのように体のどこでも犠牲にしていいわけではない
。
「ギィ!」
それで終わりではなかった。
カイザーアントの両手の剣が、激しく擦り合わされる。
ノコギリを激しく擦るように、強く、素早く。
(摩擦……熱!)
蟻酸はおよそ七十度ほどで発火するという。可燃性の物質だ。
カイザーアントは、種族をここまで追い詰めた敵に対して我が身を構わずに倒すための手段を取ろうとしている。
(アヴィ!)
発火した。
「かふぁっ!」
ボムッという音と共に炎が広がり、周囲に熱が拡散する。
ほんの一秒に満たないことだが、熱風が通り過ぎた。アヴィの小さな体を軽く吹き飛ばして。
「う、ぐぁ……」
倒れて呻くアヴィと、爆熱で少し焦げつつも立ち尽くすカイザーアント。
肘の辺りに剣がささったままだが、それを気にせずふるふると腕を上げる。
勝利を示すかのように。
その腕に、粘り気のある液体を巻き付けたまま。
(殺す!)
溶けたのだ。熱で、溶けた。
凍ったゲイルを踏み砕きながらアヴィと戦っていたカイザーアントは、ゲイルの真上にいた。
爆熱で解けながら、砕かれていた体組織と繋がりながら、ゲイルはそのゲル状の体をカイザーアントに巻き付けていた。
(よくもアヴィを!)
体の半分くらいは残っていない。だが関係ない。
クソったれなアリの体に取り付いたゲルを全力で締め上げながら、隙間から体内に入り込む。
アリの重要な臓器を、呼吸器を、脳を掻き回した。
ゲルの体を体内に侵入させれば堅い外殻など関係がない。
(こいつ……なんてどうでもいい!)
息絶えたかどうか確認するよりも先に、吹き飛ばされたアヴィの下に駆け寄ろうとそれから離れる。
這いずる。
アヴィの呻く場所まで、全力で這いずる。
遅い。遅い遅い遅い!
今までさんざん自分の動きが鈍く遅いと思ってきたが、今日は中でも最悪に遅い。
凍ったり熱されたりで遅いのか。そうではない、いつもと同じだ。
だけどその速度は、アヴィの下に辿り着くまでの時間は、ゲイルを激しく苛立たせる。
「ぁ、ひぅっはっ……」
アヴィの体が痙攣している。
口を大きく開けて、爪で胸の辺りを掻きむしるようにして痙攣を繰り返していた。
(呼吸できてない!)
辿り着いたゲイルは、何も考えられなかった。
何も考えずに、アヴィの口の中に体を押し込む。
気道を確保しなければ。
突っ込んだ体を筒状にして空気を送り込む。
熱風を吸い込んで気管支が火傷のようになっていた。
とにかくそれを治す、癒す。
(しっかりしろ、アヴィ! ゆっくり呼吸を)
声をかけたいのに、ゲイルの体に発声器官はない。
どうしてだ。
アヴィはあんなにゲイルを呼んでくれていたのに、ゲイルはアヴィに声もかけてやれない。
苦しんでいるのに。こんなに苦しんでいるのに。
こんなゲル状生物でなければ、もっとアヴィに何かしてあげられたのに。
魔法が使えたら、治す魔法が使えたら。
ゲイルは、涙も出ない体で嘆きながら、己の身を呪いながら、愛する娘の体を癒すことだけをやめなかった。
「……かあ、さ……」
どれくらい経っていたのだろうか。
掠れた声が、しゃがれた声が、暗い穴蔵に響いた。
(アヴィ!)
身を震わせて応える。
「……喉、乾いた」
よかった。
よかった、本当に良かった。
アヴィの要求に従って水を出す。
ただ体が砕けたりしていたので、残っていた水は少なかったが。
それでも、我が身を絞ってでも水を与えると、アヴィはゆっくりとそれを飲み下した。
体を起こして、二度、三度と呼吸をする。浅く、浅く、それから深く。
そうして小さく頷いて、ゲイルに向かって笑いかけた。
煤けた顔で、最高の笑顔で。
「聞こえてたよ。母さんの声」
そんなはずはないのに。
優しい子だった。
※ ※ ※
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