第16話 食うか、食われるか_1
ゲイルは自分の迂闊さを呪う。
慢心、誤算、救えない愚かしさ。
自分がこの洞窟で上位であると錯覚していた。慣れてしまって危機感が麻痺していたというのか。
ゲイルが洞窟内でうまくやれていたのは、どこにでも潜り込める不定形の体だから。
その特性を活かして生きてきたことを、どこか自分の実力だと勘違いしてしまっていた。
アヴィという存在があっては、その特性を十分に発揮できない。
自分だけなら逃げ延びられる状況で、今までなら迷う必要もなかった選択肢を選べない。
本能は逃げろと。それを意思が否定する。
目の前の大トカゲ。人間が呼ぶグィタードラゴンが迫る姿を前に、背にはアヴィの小さな体を隠すように。
「母さん!」
いいから黙っていろ、と。
ただのでかいトカゲだ。おそらくあの足で踏むだけでゲイルの体は大きく削られるだろうし、まともにその炎を食らえば消し炭どころか蒸発してしまうだろうが。
でもでかいトカゲだ。生き物である以上は死ぬ。
どっちが死ぬか、という単純な問題。
この暗い洞窟の中ではいつも当たり前に営まれている日常的なこと。
他のモンスターの群れなどを避けながら移動していたゲイルだったが、相変わらずその動きは遅い。
おそらくアヴィを餌として感知したのだろう大トカゲの動きに気が付いた時には、逃げ道のない通路に出てしまっていた。広い通路の行き止まり。
(俺がもっと素早く動けたら)
これまで受け入れてきた自分の特性を呪う。
とりあえずアヴィは剣と魔法の武器を手にしているが、彼女の力ではとても太刀打ち出来る相手ではない。
ゲイルから見ても、自分の倍以上の巨体。子供が大人に立ち向かうような体格差だ。
素早さはもちろんゲイルより上で、筋力もおそらく相当に強い。炎を吐くという最大の武器もある。
圧倒的に不利。
「……」
ちろちろと、二つに割れた舌を口の隙間から覗かせる。
おそらく視覚で見ていたらわからないだろうスピードで、長く伸びた舌がゲイルを貫いた。
消化する時間もないほどの一瞬の貫通。
鋭い突きによる攻撃だが、ゲイルには関係がない。穴を穿たれた部分が元に戻るだけだ。
後ろのアヴィに刺さらなくて良かった。狙いがゲイルだけだったのか、ただ単に舌の長さが届かなかったのか。
(でも、危ない)
ゲイルの体がゲル状だから突き抜けても問題はなかった。アヴィの肌なら、貫くまでではなかったかもしれないが、傷を負っただろう。
どうすればいいのか。
とりあえずゲイルの体内には消化できずに残っている短剣、ナイフなどの道具があった。
アヴィに使わせることもあるし、吐き出しての投擲に用いることも出来る。
ゲイルはとにかくアヴィとの距離を離す為に、うぞうぞとグィタードラゴンに這い寄った。
決してスピードが速いわけではないゲイルに向けて、鋭い爪を有した前足が振るわれる。いつも通り回避不可能。
べしゃり、と潰されるゲイル。
メラニアントがこうして潰されるところを見たことがあった。まさか自分の番がくるとは。
「シィッ」
ドラゴンの口から息が漏れる。正体不明の敵を潰してやったぞとでも言うのか。
もっとうまそうな獲物であるアヴィの姿は、奥の岩陰で縮こまっている。それを食べるのを邪魔しようとした変な生き物を排除して満足したかのように鳴く。
確かに潰した。ゲイルの不定形の体を。
(潰されても関係ないんだよ)
むしろゲイルからすれば向こうから掴んでくれたというところだ。
機動戦では全く勝ち目がないが、寝技に持ち込めば少しは勝機が見えてくる。
グィタードラゴンとすれば、できれば生肉を食べたかったので火を吐かなかった。そんな意図はゲイルには知ったことではない。
せっかくへばりついたこのドラゴンの腕。そこを貪り食らうように体の粘液全体で消化する。
「ジャアアアァァァツ!」
分厚い皮というか鱗というか。表皮は溶けにくいが、手なのが幸いだった。
指と指の間の、水生生物で言えば水掻きがある辺りは少し柔らかい。
(肉球もあるのか。生意気な生き物だ)
トカゲのくせにと思うが、ドラゴンなので何か少し違うのかもしれない。
とにかく食らう。溶かす。ちょっと溶けてきた表皮に体内にあったナイフを突き立てる。
「ジュルァッァァ!」
怒声とも悲鳴ともつかない声を上げて、ドラゴンは手を振り払った。
その力は強く、へばりつこうとするゲイルの力よりも振り除ける遠心力の方が勝る。
べちょっと。
岩壁に叩きつけられるゲイル。
ちょうどアヴィの隠れている岩の近くに衝突して、四散した粘液のいくらかがアヴィの頬にもかかった。
「母さん!」
出て来るんじゃない、と言いたいところだが。言えない。
恰好がつかないじゃないか。それも仕方がない、そもそも形のない生き物なのだから。
「シゥウゥゥッ」
右前足に傷を負ったドラゴンが、憎しみを込めた声を上げる。
一矢報いたというところだが、前足を庇うように寄ってくる巨体にいよいよ絶望か。
もう一度接近戦をということにはなるまい。
痛みで戦意を喪失でもしてくれたらよかったのに、怒りを買ってしまったようだ。
「母さん、しっかりして母さん」
ああ、大丈夫だよと。言ってあげたいのに。
体の何割かが飛び散っただけだ。何のことはない。
(……強がりもできねえや)
駆け寄ってきて心配そうに声をかけるアヴィに何もしてやれない。
近付いてきて、小さくなったゲイルを見下ろすドラゴンに対して、何も出来ない。
「母さん」
せめてアヴィには自分より先に死んでほしくない。
盾になるように、ドラゴンとアヴィとの間にゲル状の体を張ることくらいしか。
ドラゴンは、ここに至っては食事のことよりもこのゲル状の生き物を仕留めることに重きを置いたようだった。
口元から漏れるのは、舌ではなく炎。
「母さん、死なないで」
ああ、死にたくないな。
けど自分が死にたくないのと同じくらいに、お前を死なせたくないのだと。
ドラゴンの体に大きく息が吸い込まれる。
予備動作。
それをただ見ていることしかできない。
ゲイルの動作は遅い。相手が二回三回行動する間に一度しか動けないような鈍重さ。
それでも壁になるくらいのことは出来る。
いつかこのドラゴンの攻撃を防いでいた魔法の壁ほど役に立つのかわからないが、出来ることはそれだけ。
「ゴオオオオオォォォォッ!」
二度目だ。これをこの身に受けるのは。
かつてこの炎を味わった時は、岩陰からだった。
岩からはみ出していた部分は即座に焼失して、隠れている岩も半ばまで溶かされてしまった。
おそらく長い時間をかけてゲイルも成長していだのだろう。
全力でこの粘液の体を強靭にするよう力を込めたら、一瞬で焼失はしなかった。
表面からじゅわじゅわと焼けて、氷にお湯をかけたように見る間に減っていく。
見る間に、といっても見る視覚はない。それに最後に見るならトカゲ面ではなくアヴィの方を――
(……?)
アヴィの手が、ゲイルを貫いている。
歯を食いしばり、万力のような力を込めてゲイルの体を貫いている。
背中――今のゲイルの意識的に見て背中側――には突き刺すような痛みが続いていた。
ドラゴンの炎に焼かれる痛み。
アヴィに突き刺された痛みは、もちろんない。この小さな手はいつもよくゲイルのゲル状の体内をまさぐっていたのだから。
別の痛みがあるのは、焼かれるのとは少し違っていて。
「真白き清廊より来たれ、絶禍の凍嵐」
冷たい。
極寒の、極低温の氷雪が、アヴィの手に握られた魔法の武器が、ゲイルの体を貫いて背中側に吹き荒れていた。
焼き尽くそうとする灼熱の炎と、氷に閉ざそうとする極寒の吹雪。
自分の背中でそれがぶつかっている。
(いってぇ! いたたたたいたい! これは体験したことがないっ!)
焼かれ、凍り、凍ったところがまた焼かれて、また凍る。
それはゲイルが人間だった頃の微かな記憶を含めて、一度も体験したことがない激痛。
意識が遠のく。
すぐ前に渾身の力を振り絞って立つアヴィの存在がなければ、とうに意識が飛んでいる。
いや、いなかったら既に焼かれて死んでいるだろうが。
かろうじて、意識も命も保っている。
アヴィの使った魔術が、岩をも溶かすグィタードラゴンの火炎を相殺してゲイルへのダメージを減らしていた。
「っくううぅ…っ!」
アヴィが呻く。
その頬に、溢れてくる熱量で火傷のような跡が浮かぶ。
それに気が付いたゲイルが、少しでも熱がアヴィに向かわないように自分の身を広げた。
抱き合うように、ドラゴンの吐く劫火の中、懸命に抗うゲイルとアヴィ。
アヴィが膝を落とすのと、ドラゴンの息が途切れるのはほぼ同時だった。
荒い息で肩を激しく揺らすアヴィと、息を吐ききって少し疲れた様子のグィタードラゴン。
その間に立つ黒い塊は、いつものような液状ではなく、黒い炭状になっていた。
「かあ…さ、ん……」
黒く炭化した塊が、その声に応じることはない。
「シァァァ」
応えるのは、目的を果たしたというドラゴンから漏れる音だけ。
「あっ!」
がぶりと炭を咥えて、上を見上げる。
そのままごくりと。
前菜を食べ終わったという様子で、ドラゴンは跪くメインディッシュに舌なめずりをしてみせた。
※ ※ ※
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