たりてない

@takahashinao

足りてない

彼は今、考えごとをしている。

左手の親指と曲げたひとさし指の関節で、その薄い下唇を軽くつまんだからだ。

思考に、つぷりと、深く入り込んでいくときの彼の癖。


私はその仕草を見るたびに泣きそうなほど嬉しくなる。

彼が無防備な姿を私に晒している。

その状況に甘だるい恍惚を覚えるのだ。


ひんやりした細長いグラスの水滴を撫でながら、私まで引きずりこまれないように思考を現実に繋ぎ止める。


あと半時間で終電が最寄駅を出発してしまう時刻になった。

駅から近いこの居酒屋でも、お開きムードの人たちと別の店に移動する人たちとで空気が動き始めていた。


「…」

「なんて?」

ガヤガヤとより騒がしくなった店内。彼が何かを言ったが聞き取れず、少しだけ顔を彼に近づける。

すると彼は、あとは飲み干すだけになった2つのグラスの載った小さなテーブルからぐっと上半身を傾け、頬のすぐそばで言った。

「このあとどうする?」

息が熱い。


私は少し首を傾け、近くなった彼の瞳をひたと覗く。

表面張力で丸く潤った涙が今にも溢れそうだと思った。

その涙は今日飲んだどのお酒よりもきっと甘い。


彼から身体を逃した反動でテーブルが傾き、グラスが揺れる。ぐわんぐわんと揺れている。


「どうしよう」


私はそうつぶやいて彼の顔を改めて見つめてしまった。

間接照明に照らされた彼は少し苦しそうな顔をしていた。彼から滲む苦味は、心の裏側をじりじりと柔らかく引っ掻き、私は自分を手放してしまいそうになる。

狂おしいほどにもどかしい。


終電が出るまでに決めなくては。

早くしないと出てしまう。


判断力の芯が、10年来の関係性が、ぐずぐず、そして、やがて、とろとろと溶けていくを感じる。

薄い皮からじわりと本音が染み出してくるのを見透かしたように、彼は薄く笑った。


「終電出る。帰るか」


あっさりと最終決定は下された。

もともと私に選択肢などないのだ。


熱気を多く含んでいた店から無機質な駅まで並んで歩く。

これまでも、これからも変わらない風景。

だが、熱さだけが日を追うごとに強くなっていくことが怖い。


そのままあっさりと駅で別れて、改札の方向へ私は歩き出した。

そして、少し横道に逸れながらスマホを取り出す。慣れた手順で電話をかける。


「ゆう君?ごめん、今近くまで来てるんだけど終電なくなっちゃって。今夜泊まりに行っていい?」


奥側の熱はまだ燻っている。

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