第518話 逆張りの社会
今回は「逆張り」の話。
もうだいぶ前ですが、朝のNHKのニュース番組でマルケスの「百年の孤独」の文庫が売れまくっていることを特集するコーナーがあった。僕としてはぼんやりと見てましたが、書評家の方が「タイパ」という表現を使って説明し始めた時、きな臭いというか、これは燃えるのでは? という感じがした。そのまま夕方くらいになり、同じ日だったと思うのですが、とある小説の書評として市川沙央さんの文章がネット上に上がっているのが、やや燃えていた。で、それを僕が知ったのは夕方だったのですが、同時に朝の「百年の孤独」の件もしっかり燃えていた。
これは新型コロナの時期にも感じたことですが、ある種の専門家の意見が一般人によって否定されてしまう、という事態が見受けられる。例えばワクチンの安全性というものは、ある部分では専門家が太鼓判を押しているわけだから「安全」であるはずなんだけど、ネット上ではかなり強い主張として「反ワクチン」という主義というか、思想が存在した。で、その陰謀論がどうなったかと言えば、数年の間は爆発的に広まっていたけど、ワクチンの接種が自由になるとほとんど見られなくなった。
この辺を見ていると、何らかの主張に対して「逆張り」の主張をするのには、曖昧ながら快感のようなものが伴うらしい。ワクチンの安全性を政府や専門家が強く主張すればするほど、それに「逆張り」する意見も強くなる。そこで「逆張り」したことでどんな利益があるかと言えば、まさに快感しかない。ワクチンの件にしても、ワクチンが安全なら、それが安全では無いという主張は無意味だし、ワクチンが危険だったなら、「自分の考えが合っていた」という主張はできてもその後の対応策、次善の策を持っている人はほとんどいなかったのでは。
それにしても、二つの書評の燃え具合からすると、ネット上には、書評家よりも優れていると自認する一般人が多い、ということがわかる。「百年の孤独」は三十万部くらい売れているようだけど、さて、何人が最後まで読めたかな? 何回くらい読み直しただろう? そもそも読書が趣味の人間がどれくらいいる? 年に何冊の本を読んでますか? そして、しっかりした媒体に、しっかりした書評を掲載してもらっている人はどれだけいるのでしょうか?
これは僕も感じることだけど、適当な主張を前にすると「それは違うのでは?」と思うことはある。あるけど、それはきっと何の裏打ちもない、素人の直感で、論理的でもなければ合理的でもない、ただの感想に過ぎない。でも、ネット上を見た時には専門家も素人も同じ場所で同じように発言している。で、そこに長く浸っていると、どうやら距離感というか、自分の立ち位置が分からなくなるらしい。専門家と自分たち素人が対等だと思ってしまう。その辺にこの「炎上」の原理があって、これはあまり笑っていられないのでは。専門家の意見を咎めるというのは、それなりの背景がなければ本来は出来ないはずなので。あまり良い例えではありませんが、竹島や尖閣諸島は日本の領土とされているけど、僕は竹島や尖閣諸島が長い歴史の中でどういう風に扱われてきたかは知らない。江戸時代や室町時代、鎌倉時代、もっと遡って大和朝廷のような時代に島がどうなっていたかは、きっと専門家は知っているだろうけど、一般的な日本国民は詳細には把握はしていない。いや、こういうことを書くと、教育が悪い、となるのかな……?
僕としては、自分の身をわきまえて、専門家には敬意を持って、その意見をまずは聞こうかな、と思ったな。専門家を燃やして溜飲を下げるのは、何か違う。
2024/10/10
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