第503話 審判を信用できなくなったら……?
今回はちょっとモヤってる話。
オリンピックをほとんど見ないのですが、適当な番組を見るとかなりフォーカスされた、断片的な内容が入ってくる。
その中で大きいのは「誤審」の話。柔道やバスケットボールでそんな話題があるらしい。
僕は経験もないし、状況を把握してないけど、おそらく審判は超一流の審判で、しかしどうしても「完璧な」判断は下せないらしい。それをどうにかしろよ、というつもりは僕にはなくて、むしろ人間がやる以上は間違いもあるよなぁ、と思っている。
たまに公募の結果発表を確認するためにXで検索をかけることがあるのですが、そこで目にした「審査員ガチャ」というような言葉にも、「誤審」をバッシングするような雰囲気がある。
僕は少なくとも十年以上、公募に原稿を送っているけど、「審査員が違ったら審査を通過していた」という趣旨のことは一度も思ったことがない。下読みの方であれ、編集者であれ、僕はそういう人を信用しているからです。そんな立場の人が「これは違う」と言えば「違うんだな」で諦めがつく。そもそも、下読みをしたり、編集者だったりする人が一般人とはまるで違う立場なのは明白で、ある種、特別な存在だと僕は思っている。それに、面白いものを求めている、現在進行形で売れているものを求めているのでもないかもしれない。これから売れるもの、売りたいものを欲しがる気がする。
僕には想像もつかないけど、文章の良し悪しについて「公平」というか、「絶対的な評価基準」は無いのではないか。世の中に出ている本でも、読者はそれぞれにまったく異なる感想を持つわけで、仮に感想を文章に起こした時に同じ言葉を使ったとしても、個人個人の感覚は全く違うと思われる。そんなものを平等とか公平に審査するのは不可能なのでは。
オリンピックで審判をバッシングするのを見ていると、誤審の場面が最初に来るわけではないと分かる。試合がある程度、進行したところで誤審が起きる。なら選手はその前に出来ることがあるように見える。柔道なら締め技を食う前に決着をつければ良いし、バスケットボールなら、試合終了目前でファウルで同点に追いつかれるとするならその前に四点でも五点でも取れていればファウルの影響は無かったことになる。僕はその辺りがどうも気になる。誤審で勝ちを逃したかもしれないけど、誤審だけが勝敗を決めたわけではない、というか。
文章の公募もそうで、下読みの人が誰だとしても、どんな価値観、どんな感性の持ち主でも、無理やりにねじ伏せるようなものを書いておけば済むことなのでは。それは、自分にとって都合のいい下読みの人を求めたり、そんな人に当たってくれ、と幸運を願うより、はるかに意義がある気がする。
これはどこかにも書きましたが、ある公募で最終の対象になった時、編集者の方から電話がかかってきて、いくつかの質問を向けられた中に「最近は何を読んでますか?」というのがあった。僕が「リョサとか、マルケスとか」と答えると、編集者の方は即座に「南米文学が好きなんですか?」と反応してきた。僕も今になればすぐに連想できることだけど、当時の感覚では、編集者ってさすがに小説に詳しいな、という感じで、それだけで僕は編集者という人をほぼ100%、信頼できるようになった。
ともかく、審判や審査する人を疑うようでは、成り立たないし、そういう人へのリスペクトも必要なんじゃないかな、と思いましたね。
それはそうと、いつか、プロの編集者の方と作品を作りたいものです。
2024/8/1
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