第500話 極論こそが響くのか

 今回はネット上の言論を前にした私感の話。

 女子の体操の日本代表選手が十九歳で喫煙したり飲酒したりして、パリオリンピックを前に代表を辞退することになっている。

 さて、Xを見てると主張は二つに分かれている。飲酒や喫煙なら厳重注意的なもので済ますべき、という論と、厳正に対処して代表辞退が妥当、という論です。

 これを少し解体すると、法律や規則をどこまで厳密に適用するか、ということだろうと思われる。

 これはもう時効だから許されると思うけど、僕が大学二年生の時、年齢で言えば十九歳の時、入ったサークルの飲み会があったのですが、同学年、同い年の学生が普通に飲酒していて、内心、おいおい……と思っていた。僕はそんな中で「未成年なので」と主張してソフトドリンクを飲んでいたけど、どうにも僕の方が堅苦しいというか、空気を読めない、みたいな感じでしたね。まぁ、客の年齢を確認せずにアルコールを出した店が悪い。ちなみにその一年前には別のサークルの飲み会があったけど、その時の店は年齢確認してからでないと客を入れないし、未成年は入店拒否という態度だった。

 さて、僕がこの体操選手の件で感じたのは、生まれてから今までの間で、法律や規則に反することを一度もしていない人はいない、ということで、その点である種の負い目や、ある種の報復があるのかもな、ということです。自分が犯した間違いを許して欲しいと思えば寛容になり、自分の間違いが咎められたのなら他の人の間違いも咎められるべきと思ったりするのでは。

 法律や規則の厳密な適用はかなり難しい。例えば道を斜め横断したことがない人はいないだろうし、車を運転していて黄色信号の交差点に勢いで突っ込んでしまう人もいるのでは。他にもネット上で誰かを痛罵した人もいるだろうし、動画投稿サイトで違法アップロードされた動画を見た人も大勢いると思う。

 そんな当たり前の背景を大勢が共有しているはずなのに、Xを見る限りでは大抵の人は極論を展開して、意見が二極化してしまうのは興味深い。これはおそらく、中途半端な意見、どっちつかずの意見が求められていないし、そんな発言をすると咎められてしまうのではという恐怖があると思われる。でも実際の社会では、法律や規則は時に曖昧になってしまうのが現実では。ただ、国を代表する立場の人にはそれなりの行動が求められるのも事実で、それはスポーツ選手に限らず、様々な立場の人が背負っている。逆に言えば、何者でもない人は何も背負わないことになってしまい、では何者でもない人なんているのか、となると、まさにネット上の匿名(のつもり)の人は、まさに何者でもない。

 この一件で僕が考えたのはそんな、ネット上では中庸など求められない、不自然でありながら自然な様相と、誰でもないという錯覚の恐ろしさでした。

 僕も善人でいたいところです。まずは道路を渡る時は横断歩道で渡ろう。


2024/7/19

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