第485話 つまりは「サブウェイ」

 今回はちょっと考えたこと。

 前にも触れた気がしますが、「異世界ファンタジー」が特定の要素に支配されていて、それを嘆いたり反発する人がいるのが見て取れる。僕もそんな感じだし、SFにおける極端な一要素の突出にもモヤモヤしたりする。

 さて、そういう今売れているものがハイカルチャーで、それに反発するのがサブカルチャー、っていうことになるんだろうけど、これが単純な「量」の問題ならおそらく簡単にひっくり返ると思う。というのも、「違うものを読みたいな」という発想が生じるはずだからです。これは「新しいものを読みたいな」と置き換えても良い。僕自身、いろんな本を読んでいるけど、そうなるのは常に「新しいもの」を求めているからです。サブカルチャー的なものは、常に「多数に対する少数」が「注目される」ことから始まるはずで、要はカウンターカルチャーです。

 ただ、なんでも良いわけではなくて、おそらく極端な変化よりは少しずつの変化の方が効果的であろうと思われる。興味が移る、食指が伸びる範囲の中で差異を作る、という事です。

 ここからが僕の中のモヤモヤの中心なんですが、カクヨムコンの短編の方で「円城塔賞」が今回はあるわけですが、二つの疑問がある。一つは、応募する人のどれくらいが円城塔さんの作品を読んでいるのか。もう一つは「円城塔」というブランドはどれくらい強いのか。

 まず、円城塔さんの作品がどれだけ読まれているかは、まぁ、調べようもないですが、僕は「道化師の蝶」しか読んでませんね。「屍者の帝国」を加えて良いならそれも読んでいて、二冊です。なので、円城塔さんの作風とか、あまり知りません。

「円城塔」というブランドに関しては、おそらく文学賞を追っている人か、二十年くらい前からSFを見てる人は知っている、くらいなのでは。たまたま近場の図書館で棚を見たのですが、円城塔さんの本は二冊だけありました。都会の大きい図書館なら違うかもしれませんが、誰もが知っている、というわけではないような。「円城塔」は「伊藤計劃」ほど華々しくなく、「宮内悠介」ほど身近でもない、というか。「森博嗣」より観念的で、「神林長平」よりは詩的、というか。いや、テキトーなことを言いました。

 どうやらSFというのはサブカルチャーだけれど、それ以前にもっと地下に潜っている地下鉄、サブウェイ的なものなのかもなぁ、と思った。

 日本のSFブームって、実はかなり勢いが落ちているのでは。文学賞の場では盛り上がっても、例えば「このミステリーがすごい!」と比べると、「このSFがすごい!」的なものは動きが弱いような。話題になる作品はかなり限られる上に、海外小説になる。まぁ、読む分には良いんですけど、書く方は難しい時代かもなぁ。

 これはどうでも良いけど、この前、NHK Eテレの「ネコメンタリー」で藤井太洋さんが特集されてて、藤井太洋さんの風貌や髪型がSFっぽかった。僕も立ってパソコンを使える環境を作りたい。いつも寝転がってるので。これでは僕の方が猫である。



 2024/1/26

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る