第484話 想像力と語彙の関係

 今回は個人的な葛藤の話。

 僕はとにかく語彙がない、表現力がないという自己評価なのですが、一部の作家の表現を前にすると、それを如実に感じることになる。

 さて、表現力の不足がどこに起因しているかというと、語彙の学習のようなものにあるというより、もっと根本的な「想像力の欠如」にあるのではないか。

 これは物語を書く時にタイプが分かれるようですが、僕は基本的に映像を思い浮かべて、それを言葉に置き換えます。その想像を上手く伝えられるかどうかが、まさに「表現力」ということでしょう。

 とにかく映像は比較的、鮮明に見える。逆に、見えないものは書けないのですが、それはとりあえず脇に置いておいて、見えるとしても、それはそのまま読者には伝えられない。言葉にする必要がある。

 言葉というのは不思議なもので、書くことで伝える一方、書かないで伝える手法がある。文脈とか、行間とか、そんなものです。

 その「言葉ではない言葉」で何かを伝えるのも、あるいは正当なテクニックかもしれないけれど、やはり言葉で伝える方が強いし、同時に、言葉を繋げていくことで初めて行間が生じるようにも思う。

 僕はあまりテキスト的なものを参照しない。基本的に作家の実作に触れることで何かを探そうとする。例えば、虚淵玄さんの文章とか、森博嗣さんの文章とか、そういう際立った、とても再現や学習が不可能なものを飲み込もうとしてしまう。どんな表現が正しいかは、僕には判断できないし、それはつまり、自分の表現法が確立されていない、とも言えるけど、逆に考えて、表現が固定している人がいるのか、という問題もある。ある種の型が強く評価されることはあるから、おそらく表現が固定する、型になるのはおそらく正しい。それができないのが、やはりアマチュア、ということかもしれない。さらに捻っていくと、表現を色々と試すのは逆効果で、これと決めたものを追求するのが作家になる正しい道筋なのだろうか? 僕にはとても、出来ていない……。

 行間について僕が体感していることは、作品の空気感はまさに行間から生じている、ということです。これは非常に面白い現象で、際立った表現と必ずしもセットではない。文体とはセットかもしれないけど、文体から実感するものでもない。最近では宮内悠介さんの醸し出す空気はやはり良かった。宮内悠介さんという作家に限って考えれば、極端な言語テクニックが駆使されているようでもない。そう、空気感はストーリーには宿るかもしれないな。これは表現というより、構成の力でしょうね。

 いずれにせよ、僕もちゃんと語彙を増やさないとな。そしてその語彙と想像の中の光景がうまくリンクするようにしないといけない。ま、今のところは趣味としての活動なので、やりたいようにやれば良いか。




 2024/1/18

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