第483話 物語を理解できない問題

 今回はたまたま見た世間のお話。

 なんでも「葬送のフリーレン」をアニメで見ていて、よく理解できない視聴者が一定層、いるとかいないとか、そんな話があった。

 どこかの誰かが「鬼滅の刃」を例に挙げて意見を口にしていたりもして、なかなかユニークではある。

 これはまったくの個人的な感覚だけど、「麻雀放浪記」とそれが下敷きの漫画「哲也」なんかを見ていると、金を賭けて博打を打ってるのは分かる。しかし、仮に博打に負けたらどうなるのか、というのは大抵、描かれないので、想像するしかない。漫画「哲也」のクライマックスは阿佐田哲也の小説にはないと思われる、坊やとドサ健の法外な額をかけた博打なんですが、これが、負けたらどうなるのかははっきりしない。ネタバレになりますが、最後は負けた健がアメリカで賭場のボーイのようなことをしている描写があるけど、具体的にどういう立場になったか、それは説明されない。

 ではこの例え話において、僕が最後の短いの健の様子の描写を見て何かを感じるのは、論理ではない。直感、本能ということです。言葉ではなく、ぼんやりとしたイメージ。

 創作において何かを表現する時、それぞれの分野で出来ることもあれば出来ないこともあるとはいえ、根本のところで、「描くか、描かないか」の選択はできる。

 これは妙な例えだけど、秋元康さんは「自転車を立ち漕ぎする」という歌詞を多用して、ネット上で良い意味でも悪い意味でもネタにされる、と自身のラジオでネタにしていた。秋元康さんの中での青春のイメージが「自転車の立ち漕ぎ」と本人は言うけど、青春的な気持ちや感情をそのまま言葉にせず、「立ち漕ぎ」に置き換えて描くことで、良い効果も悪い効果もあろう、と僕は感じた。僕はこの立ち漕ぎ=青春は理解できるけど、その理解やイメージは僕だけの感覚なので、他の人がまったく同様の感覚を受ける確信はない。もちろん、理解できない人もいるでしょう。根本的に理解できなかったり、イメージが固定されていて、同じ表現が何度も使われた時に一つのイメージしか浮かばずにうまく消化できなかったり。

 創作の目的が何か、というところが一つの鍵でもある。読者に特定の何かを伝え、それを読者の間や社会に伝播させたい、と思っているなら、とにかく全てを事細かに表現するのが正しい気もする。一方で、読者の中にある感情のようなものを刺激したいと思えば、読者に解釈を預ける余地はある。こちらは人間がおおよそみんな持っている感性に訴えるので、言葉とはまた違った形で漠然としたものが共有されるように見える。

 逆に、読者、受け取る側について想像すると、「楽しみ」という思いではなく、「楽しませてもらいたい」と思い始めると、作者の側とは折り合いがつかないこともあろうと思う。それも「分かりやすく楽しませて欲しい」となると、おかしくなってくる気もする。

 読者、受け手、もっと言えば「消費者」が極端にただただ楽しもうとすると、そこには感性みたいなものはなくなって、簡単で、本能的なものだけが残っていくことになるのでは。性的なもの、暴力的なもの、というような。

 それは悪くないのかもしれないけど、思考すること、想像することがなくなってしまったら、読者間での共感さえも味気ないものになるのでは。

 これはまったくの余談だけど、将棋についてまったく知らない人が「藤井聡太って凄いんでしょ?」と言ったりするけど、そのレベルで共有される藤井聡太像と、将棋を知ってる人が共有する藤井聡太像がまるで違うのは興味深い。「葬送のフリーレン」が分からない人は少し勉強すれば良いのでは、と思わなくもない。何の役にも立たないかもしれないけど。しかし、今、「葬送のフリーレン」を勉強することで、未来の別の何かを理解できるようになる可能性はあるか。それが残された希望、ってことか?



2024/1/15

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