第481話 知識量の功罪

 今回はぼんやりと考えたこと。

 自分で書いていて歯痒いというか、苦しいのですが、どうしても既存の作品の枠から抜け出せなくなることがある。これは読む時にもあるけど、ネット小説においては顕著に出現する感覚のようにも思う。

 例えば僕は人工知能に最近は興味があるけど、人工知能について詳細に書いたものを読んだか、と言われると読んでいない。原点になりそうな「われはロボット」さえ読んでない。なので、適当に書いてしまうと、どこかしらにある既存の作品と重複して、目新しさはないし、大抵はその既存の作品を超えられない。

 文芸の世界を見ていると、紙の本になるものは大抵がオリジナリティを確保している。あまり最適な例ではないですが、ロボットが出てくるものでも「フルメタル・パニック!」と「機龍警察」は、ロボットの設定に限定してもまるで違う。「繋がれた女」と「攻殻機動隊」も似ているようで違う。「1984年」と「ハーモニー」も管理社会的なもののはずなのに、似ている様で違う。

 で、僕は出来るだけ本を読もうとしているけど、とてもじゃないけど狭い範囲しかフォローできない。なので、どこからどこまでが既存なのかも分からなければ、どんな風に捻っていけばいいかも分からない。

 知っていれば捻れるけど、知らないとまったくどうしようもない。

 これは難しい問題ですが、SFにおいて「VRMMO」的なものが多くあるし、フルダイブ型の、とするものも多い。これは明らかに「ソードアート・オンライン」か「アクセル・ワールド」の影響だと思うけど、さて、そういう既存の作品にどんな風にアプローチできるだろう? 僕は明らかに変人なので、「ソードアート・オンライン」をほとんどアニメを見ずに原作だけ読んでいる。他にも「PSYCHO-PASS」を映像とノベライズを両方チェックするか、映像を見ないでノベライズだけ読んでいたりする。

 簡単に理解できる映像から、外観というか、輪郭をざっくり汲み取ることは出来るけど、さて、その汲み取った要素から何かを発想した時、うまく捻れるだろうか。これはアニメに限らず、小説原作のドラマ、映画にも言える。ドラマや映画からは文章的なテクニックは読み取りづらい。そうなると、映像しか見ない人が文章表現すると、かなり怪しいのでは、となったり……。

 ただ、こんな意見にしたところで、僕が全ての文芸作品、映像作品を網羅しているわけではないし、ネットの全てや創作をしている人の全てを知っているわけでもない。それこそがまさにジレンマです。どうしようもないジレンマ。

 この辺りに編集者の必要性の一つはある気がしますね。編集者の知識が加われば、少しは安全な気がする。

 これはどうでも良いですが、大昔、編集者の人に「最近、何を読んでますか?」と聞かれたことがある。僕が「ガルシア・マルケスとかバルガス・リョサとか」と答えたら、即座に「南米文学が好きなんですか?」と言われて、驚きましたね。僕の周りにいる人は誰もマルケスもリョサも知らないので、編集者ってスゲェ、と当時は思ったものの、今になってみると南米文学の王道なので、まぁ、常識だったのかも。

 かなり支離滅裂になりましたが、とにかく、何が新しいかは、時間と共に極端に難しくなり、知れば知るほど難しい。



 2024/1/7

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