第476話 奪われた事実を忘れられるだろうか

 これはごく個人的な、どうしようもないジレンマの話。ちょっと長くなりました、すみません。

 イスラエルとイスラム系の武装勢力のハマスがガザで武力衝突という形になり、巻き込まれた人が大勢、亡くなっている。これをきっと世界中の人が、争いをやめよ、という願いと祈りと共に見ていると思う。

 僕も同じことを考えながら、まったく異なる感覚もある。

 イスラエルがユダヤ人国家であることが、かなり気になる。八十年も前になってしまうけど、ナチスがユダヤ人にしたことが僕はどうして無視できない。世界にユダヤ人が静かに暮らせる土地があっても良いのではないか、と思うわけです。そもそもからしてユダヤ人に対する弾圧というか、虐殺に対する責任は、どれだけ世代を超えても、世界中の人が何らかの形で償わなくてはいけないのではないか。おそらく今、生きているユダヤ人の何割かは、親類の誰かがホロコーストで亡くなっているのでは。

 一方で、イスラエルが建国されたことで住む土地を失った人もいると思われる。これはこれで、僕の中では解釈が難しい。僕は住む土地を追われたことはない。いきなり何もかもを失って、金と荷物だけで未知の土地へ行って生活せよ、というのは受け入れ難いと思われる。

 さて、このイスラエルのユダヤ人とパレスチナの人、あるいはその難民の人たちが抱いている感情を推測して、「それでも争いをやめよ」と言えるかというと、少なくとも僕はあまり大きな声では言えない。今、戦っている思想は、どちらも、奪われたことに対する報復だろうからです。「争いをやめよ」は、「奪われたことを忘れよ」ということだろうか。

 親類を殺されたことを忘れられる人がいるだろうか。住む土地を奪われたことを忘れられる人がいるだろうか。

 もちろん、今、爆弾を降らせたり、銃撃戦をしたりしても、奪われたものは戻ってこないことは、きっと戦っている人も分かる。その一方で、これ以上は奪わせない、という発想もあるのでは。

 無関心ではないけど、僕はどちらの感情も分かるというか、平和を望む心もわかる一方で、復讐を誓う気持ちもわかるような気がする。だから、「争いをやめよ」という意見は、聖人のような人しか言えない気がして、僕はとてもじゃないけど、そんな意見は言えない。何も言えない、ということです。

 こういう時、自分が当事者だったらどうするだろう、と考えると、もしかしたら自分が死ぬことを織り込み済みで銃火の中に飛び込むかもしれないし、あるいは安全な場所まで必死で逃げるかもしれない。どちらになるか分からない。まさしく、分からないです。実際の僕は当事者ではなく、本当の怒りも憎しみも恐怖も絶望もない、全部、メディアを通して見て生じた錯覚のような感情しかないからです。

 もちろん、その頼りない錯覚から世界平和が生まれるんでしょうけど、僕は自分が感じるものが錯覚であることから抜け出せない。本当のことを知りたい、と思うけど、しかしそんな術はない。僕は僕で、他の誰にもなれない。

 世界を動かす人はきっと、他人の感情や集団の感情をうまく汲み取れるんでしょうが、僕にはできないようです。そして、立派なことはとても言えない。

 戦いは勝者と敗者しか生まないのか、それとも勝者も敗者も生まないのか、悩ましいところではある。

 それでも僕は、本当に器が小さいかもしれないけど、許せないことは許せない、という感情は確かに自分の中に見出せる。許せないけど放っておこう、と思えるけど、そう思えない感覚もわかる気がする。

 争いをやめよ、は、あるいは「自分の中の許さないを許せ」なのかもしれないけど、やはりそれも、僕に荒唐無稽に思える。何もかもが積み重なり、もはや誰も何も許さない世界が、確かにあるように思われる。

 この件はとにかく、意思表示が難しい。



2023/10/15

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