第465話 誰が先を走ってる?
今回は創作の現在地がわからない話。
まず、かぐやSFコンテストは僕はダメでした。実は結果はわかっていて、選考中の情報で「作者の書きたいことを読み落とさないように」作品を読み込んでいる、という話があり、こりゃダメだ、となった。僕の作った話は、作品世界で何が行われているか、何が起こっているかにほとんど全てが使われていて、心理的な描写は少しもない。つまりそもそも「読み落とす」ような部分が何もない。そんな感じで、結果は自明、分かっていたのですが、この四千字の短編を加筆してカクヨムコンの短編の方に当てていこうかな、と考えてます。どう転ぶかは不明ですが、六千字程度の余地があるので、少しは良くできそう。そのうち、頑張ります。
さて、本題に入りますが、近場に本当に小さな書店しかないし、置いてある本も文庫か雑誌でほとんど棚は埋まります。そんな中、月に一度程度は中規模程度の書店に行くのですが、そこでハードカバーの本を目にすると、僕の知らない本が大量にあって驚く。そもそも知らない作家が大勢いる。
おかしな話ですが、文庫になる本はハードカバーの出版から何年も経っているので、文庫本で文芸を追っている限り、何年も前のトレンドや流行に触れることになってしまって、全くの時代遅れになる。それはそれでいいんだろうけど、なんというか、文章で何かしようとしている人間の端くれとしては、やっぱり現代性みたいなものを把握しておく必要がある。
森博嗣さんの発言だったと思いますが、どんなに古い本でも、初めて読むという点では古いということは意味をなさない、みたいな言葉がある。つまり新刊本を読むのと、古典を読むのとは、初めて読む時には限りなく近い、ということです。僕もそれを最近、実感として感じてますが、しかしもしかして、最新の作品には違う意味があるのでは、と思ったりもする。本を読むという点では、初見は初見として新しい古いはないんだけど、思想みたいなもの、価値観みたいなものを体感するには、できるだけ新しいものを読んだほうがいいのでは。うーん、かなり難しいというか、感覚的なものなんですが、どんなもんだろう。
この創作の最前線みたいなものは押さえておくべき要素だと思うんですが、かと言って、誰が先頭なのかはわからないわけで、手探り、あるいは見境なしに読んでいくしかないのかな、と思っている。
僕が打ちのめされたのは、図書館へ行った時、西尾維新さんの「掟上今日子」シリーズがずらりと並んでいるのを目の当たりにした時です。「戯言」シリーズは比較的読んだけど、他はほとんど読んでない。最新の西尾維新さんに触れている人とは、僕は感覚が違いすぎるし、もはや今から追いつく気力もない。一人の作家の最新形が分からないのに、ジャンルの最新形が分かったら奇跡だな……。
2023/9/6
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