第446話 無関心が許されるのか、許されないのか

 今回は「無関心」の話。

 たまたまツイッターで見たのですが、LGBTの問題に関する発言で「無関心」は許されないという主張があった。

 この「無関心」というのがどのレベルのことなのかは、かなりややこしい。僕は性別に関しては特別な意見はない。それは僕の中での個人的な主張はないけれど、誰かが苦労しているなら寄り添いたい、という感じです。これも無関心だろうか。

 これは都会の人には馴染みがないのかもしれないけど、田舎だと物置とか個人の家の敷地を囲む柵とかに、政治家や政党のポスターが貼ってあることがある。僕はそれを見るたびに、そういう主義の人か、と思うけど、あまり深く考えはしない。度胸があるというか、勇気があるな、という感想です。僕は個人的には政治家や政党のポスターは貼りたくない。支持政党のポスターでも貼りたくない。これも無関心ですか?

「無関心」を徹底的に排除することは、どうにも僕には分断を呼び込むような気がして、気乗りしない。「自分たち」と「相容れない人たち」のどちらかになってしまうというか。それに、今、世間に投げかけられている「無関心」を否定するような言論が、「仲間ですよね? 仲間になりますよね?」という誘導というか、ある種の踏み絵みたいになっているように感じる。結論ありきというか、敵味方を識別しようとしているような。

 これはもはや世代の問題というか、あと十年もすれば、小学生は一年生から六年生まで、まったく新しい教育を受けると思う。で、さらに二十年とかが過ぎると、新しい認識が社会のメインストリームになる。一番難しいのは、現在の大人たち、あるいは初老くらいの人が意識や認識を一変させることが出来るのか、というところになる。今でも反吐が出るほど不快だけど、かなり前ですが、テレビで教員の体罰が問題になった時、食事の席でしたが、父親が体罰を肯定する発言をし始めて、認識が完全にずれていることがはっきり分かったことがある。それくらい、人間の感覚は変わらない。世間がなんと言っても、個人が変わることはないかもしれない。

 少しだけ救いがある事実としては、全員死ぬ、ということです。今、性別などについての認識で古い感覚から脱却できない人がいるとしても、六十代なら三十年でおおよそ死ぬし、四十代でも五十年でおおよそ死ぬ。それくらい待てば、まったく新しい社会がやってきます。

 それくらいの長期戦が必要だし、無関心な人間を変化させるのには時間が最も有効なんじゃないかな。



2023/7/7

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