第425話 一時間で歩く距離

 今回は「距離」の感覚について。

 日常的にジョギングをしているのですが、コースがおおよそ定まっていて、自然と距離の感覚が身につきます。これくらいの距離が一キロかな、というか。

 つい先日、たまたまコースを逸脱したのですが、進んだ先が以前、歩いたことのある道筋で、走りながら考えたのが「一時間で歩いた道筋だから四キロかな」ということです。

 これは雑学かもしれませんが、江戸時代にあったと思われる「一里塚」は、成人男性が「一時間で歩ける距離」らしいんですが、一里とはつまり、四キロのことです。前に知り合いが「一時間で五キロは歩ける」と話してるのに遭遇しましたが、僕の感覚では一時間では四キロが妥当です。

 というわけで、ジョギングしながら、一時間程度で歩いた道筋が何キロなのか、ジョギングを管理するアプリのガイドで確認しましたが、おおよそ四キロでした。僕の感覚はともかく、江戸時代の人の発想はなかなか鋭い。もっとも、当時の人は距離を測るというよりは、時間を測ったでしょうけど。夜になる前に宿場かどこかで宿を取らないと困りますから。灯りすらもないですし。

 僕自身の話ですが、結構、頻繁に歩くのですが距離を意識することはあまりなくて、時間が問題になります。近場だといいのですが、電車を利用するとなると、駅に到着するタイミングを電車の時刻に合わせないといけない。都会みたいに十分おきに電車が来るわけもなく、三十分に一本、悪くすると一時間に一本なので、死活問題です。いや、それは言い過ぎか。というわけで、あまり回数を歩いてない場所を行く時は、歩きながら時間を気にします。しますが、歩きながら、道の先の方を見て、あの信号まで五分くらいかな、とか、変な風に距離を測ろうとすることになる。駅からの道筋を逆に思い浮かべて、ここからここまでが十分くらいだから、などと考えることもザラにある。そりゃ、一里塚が設定されるわけだ、と思わなくもない。持ち歩くような時計がないわけですから、やはり宿場に着くまでの残り時間をおおよそ把握するために一里塚は意味があったのでは。

 先に書いた、一時間ほどで歩いた道筋が四キロ程度だったのはともかく、実は、片道四キロ半を往復して九キロ走ろう、という魂胆だったので、四キロに達した後、五百メートル程度、余分に先に進む必要が生じました。で、僕がやったことは、適当な曲を一曲、再生して、その曲が終わる程度だけ先へ進み、曲が終わってから反転してもと来た道を引き返しました。ここのところどうにも足が痛くて一キロを八分台で走って(歩いて?)いたので、音楽一曲、おおよそ四分程度が、ちょうど五百メートルくらいなんですね。これはぴたりとハマって、家のすぐそばで九キロに達して、大成功でした。

 それにしても、現代日本で、普通に暮らす人がこんなに距離や時間を真剣に考えるのは、滑稽かもなぁ。理由はちゃんとあって、走るペースと距離を管理しているんですが、そんなことをするのも、どこか滑稽ですね。いやはや、ジョギング変態です。


2023/5/11

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