第405話 AI進化論?

 今回は人工知能のなんとなーくな妄想。

 人工知能、というか、人間そっくりのロボットを暴くテストがありまして、ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」に登場する、創作です。これは詳細を知りませんが、チューリングテスト、というものがありまして、これは現実のお話。

 最近、人工知能がテキストを生成してくれる、というのが話題ですが、これはどんな可能性を秘めているだろう。例えば、最適なキャッチコピーや、短い宣伝文は作れるかもしれない。変な感覚ですが、感情に訴える手法は実際にありふれている。食べ物で言えば「とろける口どけ」とか「至高の味」とか、なんか、そんな言葉をつけとくと素人臭くはあるけどそれっぽくなる気がする。

 長い文章になると人工知能っぽさが出てきそう、という指摘は、僕の感覚では空振りに終わる。それは、ラジオを聞きまくっている人間の感覚からすると、人間の書いた文章でもアクロバティックな内容になることはままあって、この点で見ると、人間のアクロバティックさと、人工知能のアクロバティックさ、を比較することになり、アクロバティックというものが「乱れ」であって、この乱れが「錯乱」とどう違うかは、説明できない。僕自身がラジオにメールしていて、最後の最後におかしな方向に飛躍する、ということはたまにある。稀にラジオで読まれて恥ずかしくなるタイプの文章です。

 逆に、アクロバットをゼロにした文章はどうなるか、となると、これは人間と人工知能の差はほとんど出なくなる。出なくなるけど、アクロバットな要素がない文章は、取扱説明書くらいしか用途がない。何かの技術書、入門書ですら、読者を楽しませようとする表現で工夫するので、文章の起伏が生じるのでは。

 ここまで考えてみると、文章表現というのは、感情が如実に表出するものらしい。なので、人工知能が模倣した感情は、人間の生の感情と同一ではない点で、ややズレが生じそうな気がする。もっとも、人間同士でも何を考えているか分からない相手もいるし、こちらの考えをなかなか察しない、理解しない、出来ない人間もいるので、人工知能が混ざってくる余地はある。理解できる人工知能と、理解できない人工知能、というか、「理解者的人工知能」が生じるのかな。

 人工知能を感情的にさせる、ことはできなくても、感情的な言動は教えることができる。そうするとより一層、人間らしい文章が書けるのでは。

 いやいや、しかしここまで来ると、感情とは何なのか、という問題が生じますね。感情は言葉に置き換えられるような気がしても、感情の多様さに比べて、言葉はあまりにも不足していて、使おうにもぎこちなくなる気がする。

 人工知能が感情的になっているのは、そういう演技だとして、それが人間と大差ないレベルに達してしまうと、また別の不気味なイメージも浮かぶ。人間が感情的になるのも、発作や衝動ではなく、演技なのかもしれない、というイメージ。

 誰がどんな言葉をどう駆使したところで、最終的には、本音はどこにあるのか、ということが重要になるのかも。それは人間も人工知能も関係なく、文章の奥、行間を読むような能力が求められる作法なのかも。



2023/3/29

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