第395話 現代社会のある種の「コミュニケーション」の渇望
今回はなんとなく感じていることを文章にしてみた。
僕はツイッターはほとんどROMってて、あまり呟かない。他にもネット上のニュースとかにもコメントを投稿したりしない。一番、頻繁に発言しているのがこのエッセイです。
ツイッターを見ていると、実にいろんな人がいろんなことを呟いている。専門家もいれば素人もいるし、そもそも人格が違って、個性がある。もちろん、極端な理屈を極端な言葉選びで発信する人もいるし、冷静に、しかし偏執的な言及を続ける人もいる。場合によっては、立場からしてよろしくないのでは、と思ったりもする。
僕は年齢的に生まれた時からネットに触れたり、小学生の時からSNSに触れていた、という世代じゃないけど、僕が感じるのは、一部の人はネット上に「意見」を発信することをある種の「コミュニケーション」と捉えているように見える。これは本当に感覚的なものだけど、同意や同調を求めるというか、同志を求めようとする。そして大概は空振りになる。僕自身も、空振りばかりしている。
古来、本来的なコミュニケーションは対面が原則だったはずだけど、ネットの発達は形の上で、対面の価値を消滅させた。顔も本名も、何も知らない相手と、どこかしらの部分を共有することが出来るようになった。そんな時代のネットの様子を見ると、人間は本能的にコミュケーションを求めるんだな、と感じる。誰とも喋らず、顔も合わせずにいる、ということを受け入れることができる人はごく少数で、大抵の人は誰かしらを求める。求めるけど、実際に会う相手を必ずしも求めるわけではない。面白い相手はネット上には大勢いて、簡単に繋がれるので、この人間の本来的な欲求は思わぬ形で解消されたらしい。まぁ、ネット上での繋がりとリアルでの繋がりには、隔絶した要素もありそうだけど。
ツイッターを覗いていて面白いのは、そこに出現するコミュニケーションが極端な「一方通行」であることで、これは僕にとって身近なラジオへのメール投稿に限りなく近いけど、はっきり違う部分もある。ラジオへのメールは書いた人と受け取った人以外、内容を知ることがないので、つまり相手にだけ囁いているようなものだけど、ネット上での発言は、大声で喚いているのに近い。僕の個人的な価値観では、僕という存在をアピールしたい、とは思えない。僕は面白い人間ではないし、これといって取り柄もない。むしろ社会から消えていたいと思う方が多い。そういう意味では、僕が行なっている「コミュニケーション」は極端に偏向している。おそらくツイッターなどで意見を発信して、大勢と関わっていくのが本来的な「コミュニケーション」だと思う。
この「コミュニケーション」の拡大、もしくは拡散があるいは社会を変えるかもしれないけど、連綿とラジオを支え続けている人がいることを思えば、ネットでさえも、人間の本来的な「コミュニケーション」、現実での対面と意思疎通の本来的な価値と意義を変質させることはできないのかも。
僕が見ている範囲では、まだ大勢がネット上でのコミュニケーションに期待を持っているようだけど、とどのつまり「回線を切れ、街へ出よう」になるのだろうか……。
2023/3/13
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