第386話 「ライトノベルとは何か」という議論に関して

 今回はぼんやり考えてみた、「ライトノベルとは「何か」」という議論の難しさについて。

 さて、いきなり別の場所から入りますが、「アニメソング」とは何か、という話をすると、アニメのテーマソング、という解釈がある程度、通用する。では、声優さんが歌った歌は、アニメソング、アニソンなのか、となると、やや意見が分かれると思われる。他にも、「アイドルソング」とは何か、という問いかけにも、ある程度は通用する要素があるけど、では、Vtuberが歌う歌は何だろう? Vtuberはアイドルなのか、というところがこの場面での議論の焦点になります。

 本題に入ると、「ライトノベル」はこれまで、おそらく「否定」によって定義される場面が強かったのではないか、と思ったりした。昔はよく言われた、「大人になってもアニメを見てるの?」とか「大人になっても漫画を読んでるの?」みたいな「否定」です。この二つはもはや今の時代では解消されましたが。

 ライトノベルについて議論する時に前提としてあるのが「ライトノベルはその他の小説より劣っている」という自他の観測、もしくは他者からの意見だと思われる。これはいろんな形があって、「表紙がイラストの文庫は子どもっぽい」とかも含まれます。つまり、「ライトノベルとは何か」を議論している大勢の人は、内心ではそういう「否定」を覆そうとしているのではないか、と思った。そしてその「否定された経験」が十人十色なので、それぞれがそれぞれの体験に対して回答を用意した結果、全体を見回すと統一的な見解が出てこなくなる。ある人は挿絵のイラストへの攻撃という「否定」に反論していて、ある人は会話ばかりの内容だという形の「否定」に反論している。

 これは非常に奇妙で、みんながライトノベルについて論じているようで、そこにあるのは、ライトノベル批判への反撃、ということになる。

 僕が生きている限りでは、一般文芸が批判されたことはない。恋愛小説も、ミステリ小説も、SF小説も、時代小説も、批判されることはない。何故だろう? それはもしかしたら、部分的には批判されるけど、誰も気にしない、ということなのかもしれない。ミステリで言えば、綾辻行人さんのファンと森博嗣さんのファンを重ね合わせると、どうしても相容れない傾向の読者はいるはず。時代小説でいえば、司馬遼太郎さんの創作をテーマに議論した時、歴史小説のファンは絶賛しても、歴史が好きな人は「司馬遼太郎の書くことはまったくの創作で事実に反する」と言ったりしている場面がある。

 結局、創作というものは楽しめれば良いわけで、その作品がどんな出版社から、どんな装丁で世に出るか、というのは些細な問題に過ぎないのでは。「ライトノベルとは何か」という議論は、世間に対する反発、カウンター的な動きに過ぎなくて、世間がライトノベルを当たり前な存在と認めてしまえば、この議論は自然消滅すると思う。

 まったくどうでも良い話ですが、ここ十年くらいですが、「アニソンシンガーに昔からなりたかった」という趣旨の発言をするアニソンを歌う歌手の人がいる。この言葉が僕はどうにも腑に落ちなかったけど、「ラノベ作家になりたかった」と同じような趣旨かもな、と思ったりした。歌手になるならアニソンに限定するのは不自然だし、作家になるならラノベに限定するのはやはり不自然だけど、それくらいアニソンもラノベも、特別視する人が確かにいて、そんな価値観が、世間からの「否定」に対して過剰に作用するのかもなぁ。



2023/2/16

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