第385話 極端に細分化される文化と分断

 今回はぼんやり考えたこと。

 ラジオ番組「東京ポッド許可局」が好きで聞いてますが、パーソナリティの一人のプチ鹿島さんが、とにかく知識がすごい。プロ野球、プロレス、大相撲、政治と、何でも知ってる。

 さて、僕は大相撲は好きですが、プロ野球やプロレスは全くわからない。その辺りから感じるのが、文化が細分化されているのでは、ということです。これは例えば、スポーツ新聞を真剣に読み続けると、広い範囲のことがおおよそ把握できるはずだし、もしかしたらワイドショー(今もあるなら)を見ても分かるかもしれない。でもそういう媒体が、もはや一般的ではない。みんな、知りたいことだけをピンポイントで知ることができる。

 似た現象は音楽でも言える。僕はアニソン沼に沈んでいるので、例えばジャズの話は本当に少ししか分からない。クラシックは全く分からない。視点を変えると、アニソンオタクがアイドルソングに詳しいか、と考えると、これは少しだけ怪しい。もっと考えを深くすると、アニソン沼とゲーソン沼は違う気がするし、女性声優を追う人と男性声優を追う人でも重なり合う部分は狭いように思う。同じようなフィールドにいるはずなのに、そこかしこが細分化され、分断に近い状態がある。

 この細分化がどのように作用しているのかは詳細には分からないけど、現代日本の文化は、なんというか、内と外が明確になり過ぎて、居心地が悪いようにも思う。これが象徴するのがまさにこの場、ネット小説の世界ではなかろうか。

「ライトノベルとは何か」という、人の数ほど答えがあり、一方で、「ライトノベル」の定義が曖昧なまま進行している議論が、この、細分化と分断の象徴なのでは。

 僕は何度かそこここで書いているけど、僕が読むものは全部がライトノベルで、なので、この議論には加わる理由がおおよそ消えつつある。まったくの他人事として指摘すると、表紙がイラストで挿絵があることなんか小説そのものには大した意味も影響も持たないし、会話が多かろうとキャラクターが突飛だろうと、ストーリーが面白ければ良いのでは、と思う。猫耳、メイド服、語尾が「にょ」、という要素で構築されたキャラクターは「萌え」を象徴したかもしれないけど、結局、時間が経てば何もかもが「萌え」になったわけで、ライトノベルはいずれ普通になるはずだし、小説の大前提にすらなるかもしれない。

 ここまで考えると、文化は果てしなく細分化されるし、分断も生じるけど、何もかもが過ぎ去ってみると、一つの巨大な「文化」になるのだろうか。うーん、たった今、この時代を生きている人間からすると、とても信じられないけど、どうなんだろう。これは時間が解決する問題かな。いずれは忘れ去られる問題というか。



2023/2/15

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