第383話 これが「価値観」か……

 今回はたまたま気づいた話。

 もう大昔と言って良い、2007年辺りですが、桃井はるこさんを必死に追いかけた時期がありました。いろんな曲を聞きましたが、その中に「ライフイズフリー」という、新谷良子さんに提供した曲があって、後に「life is free」としてセルフカバーされることになります。新谷良子さんの方は歌詞が連名で、一番の歌詞が違います。

 さて、この曲の二番の歌詞の一部が、以下のようなものです。

「もしも他の誰かと、変われる魔法があったら、

 だけど目覚めた朝、元に戻してと頼むだろう」

 この部分に、さて、共感できるかといえば、僕は共感というか、使命のようにこの言葉を受け止めてました。

 僕があまり転生を組み込んだ作品を受け入れられないのは、この辺りの価値観があるのかな、とふと思った。いろんな創作を読んできたし、現実で色んな人に出会ったけど、別人になりたい、とは思わなかった。自分は大した人間ではないし、頭も悪いし、愚かだし、うだつが上がらないけど、異世界で生き直したい、とは思えない。そういう選択を受け入れることに共感できないのが、この辺りの、使命感じみた感覚にあるのでは。僕が謎の世界観で異世界に生まれ直したら、こんなところで生きたくはない、元の世界に戻して欲しい、と思うのでは、と思ったりする。

 これは生き死にの問題でもあって、どんな形、どんなタイミングであろうと、避けられない死がくる以上、今、何かをするべきではないか、とも思う。死にはしなくても、致命的なダメージを負うこともあるだろうけど、それでも、この世界の、自分の命を生きることは辞められないし、やめてはいけないのでは。言葉では簡単に言えるし、例えば僕自身が歩けなくなったり、両手が動かなくなったり、耳が聞こえなくなったり、目が見えなくなったりすれば、絶望するだろうけど、それこそ死んだほうがマシだと思うかもしれないけど、生まれ変わりたい、リセットしたい、とは思わないような気がする。それは、現実的ではない、という思考よりは、本能的に自分には今しかないということを察しているのでは。その、自分とは自分である、という観念が強いことが、僕に「生まれ変わり」みたいなものを許さないように思える。

 絶望から解放されたい、という願望が、創作の中の転生に表出しているとすると、現代社会を生きる大勢が共感可能な絶望を持っていることになるけど、いったい、その絶望を日常のなかでどう飼い慣らしているんだろう。創作はその絶望にどう作用するのだろう。もしかして、絶望を想像して、そこから成功することを想像して、ジェットコースターの高低差を楽しむような感覚だろうか。

 何はともあれ、少なくとも僕は、僕という絶望から解放されないとしても、僕であり続けると思われる。苦しみ続けても自分を手放さないのは、やはり愚かだろうか。



2023/2/15

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