第378話 身近な呪縛から考えてみた

 今回は、「親」にまつわる話。

 先日、たまたま図書館に行った時、親から離れるための方法、みたいなタイトルの本があって、目次だけ見てみたけど、気が塞ぎそうだったのでそっと棚に戻しました。

 僕の育った家庭は、強烈な家父長制ではありましたが、カーストみたいなものもはっきりしていて、僕は最下位だった。とにかく自由がない。あれはいけない、これはいけない、ということばかり言われていた。反発しようとすると「なら勝手にしなさい」と、勝手にできないことを見越して言われるので、反発も無意味になる。

 さて、長い時間が過ぎて、僕がどうなったかといえば、ありもしない呪縛を想像して、拘束され続けている。如実なのは、高額の買い物が難しいこと。高額と言っても六桁ですらなく、五桁の買い物に抵抗がある。自分のお金だけど、抵抗感は単純な支出に対する抵抗とはやや異なる。そんなものは買ってはいけない、と言うような脅迫感がある。他にも、旅行に行くことが難しい。正体不明の抵抗があって、感覚としては、親の許可がなければ行ってはいけない、というような、妄想に近いものが生じて、どうせ許可されない、と考えることで旅行に行けない。もちろん、許可を求める必要はないし、許可してくれるだろうけど、どうしても独断で動けない。

 僕がよく考えることは、生まれる家庭を選べない、ということは諦めるしかない、ということで、ただ、最近の宗教二世にまつわる動きを見ていると、言葉にできないもどかしさがある。僕は誰かに助けて欲しかったし、もっと別の人間になりたかったと思うけど、その可能性は極端な価値観や教育方針の両親によって奪われている。そして二度と回復することはない。そんなわけで、僕は家族や家庭というものに否定的で、僕自身はそういうものとは距離を置いておきたい。なので、子どもを作って育てている人は本当に立派だと思う。上手く育てられるかはともかく、子どもを育てるという重大事を引き受ける決断には、一目も二目も置いている。

 少子化の問題が少しずつ重大なことだと理解され始めているけど、この問題はとにかく経済面、金銭面での支援が重視されているように見える。でも本当は、今の若い人たちが、自分自身のこれまで人生において、親や家族という存在に憧れを持てるか、というところに一つの鍵があるのでは。少なくとも僕は自分の親や家族を見ると、子どもという一個の独立した自我を持つ人間が僕の元で育ったら不幸だろう、と想像して、子どもが欲しいとは思えない。不幸の量産どころか、ただ一人の人間が苦しむのがとても見ていられない。

 子は親を選べない。親は子を選べないが、子を成すかは選べる。子どもにはきっと責任はなくて、親には巨大な責任が生じる。その責任を背負えると確信できる人が増えれば、少子化も克服できそうな気がする。いや、やっぱりこれは考えすぎ、僕の個人的価値観の論理補強かもな……。



2023/1/28

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