第374話 どんどん日本語が分からなくなる
今回も日本語の話。
あまり政治的な話はしたくないのですが、テレビで「原作、春までに○○を前提に議論するように指示を出した」というような日本語があって、理解できなかった。
そもそも何が原則なのか。議論する以上、否定されることもあるはずなので、議論の末に認められる要素が「原則」の部分ではないと思われる。○○するかしないか、が議論の的だろう。では、「春までに」に「原則」が作用するのか、となると、議論のテーマとは何なのか? となる。春までに○○するかしないか、という議論は、いったい何を議論するんだろう。夏でも良いよね、という結論は受け付けない、ということか? しかし否定する結論が出るとするなら、春までにと限定する理由はない。そうなると、春までに○○することは既定路線で、あとは議論の結果で後追いしてくださいね、ということになるのか?
政治の場ではこういう日本語の使い方がいろいろあって、例えば留学生なんかは苦労するのでは。僕でさえ苦労する。「検討」という言葉は本来的には、何も決まってない段階で議論するようなイメージだけど、実際には誰かが決めたことをみんなで「それで良いよね」と追認するのに近い。「考えていません」については森博嗣さんもエッセイで触れていたけど、想定しているはずだけど、何故か想定していないような響き方をする言葉です。
日本語が上手い人はかなり多くいて、実に多彩な表現で自分の感じたことを描き出す。ただ、読んでいるこちらとしては、こうだろうな、と想像している部分がかなりある。それこそ、作家の人間性などは、はっきり言って創作物からイメージしているわけで、実際にどんな人間かは、創作物からは読み取れない。だいぶ前ですが、千代の富士が亡くなった時、千代の富士はあまり人望がなかった、という趣旨の情報が流れた。僕からすれば千代の富士は横綱として君臨して、引退後も周りから尊敬されているだろう、というイメージがあった。それくらい、メディアにおいては現実と想像が食い違う。
先に森博嗣さんの名前を出したけど、僕はこの人のことを知っている気になっているけど、会ったことはないし、文章でしか彼のことを知らない。知りたいとは思うけど、特別に固執はしない。「森博嗣」という言葉の上での存在が信用できればそれで良い。これが、たまに政治に関する世論調査における「人柄が信頼できる」という奴の正体の一部だと思われる。逆転して、メディアに出る人は、言葉の影響だけで、善人にも悪人にもなる。たまに異常な問題発言をする人がいるけど、仮にそれが擁護される意見が噴出したら、その人もまともな人、まともな感性の持ち主、になるだろうか。
ユニークなところは、言葉を選ぶことでうまくイメージを誘導できることで、最近の政治家がよく口にする「丁寧な説明」という奴が、僕にはジョークにしか思えない。丁寧に説明するのは大前提だけど、そもそも説明してもらってから議論するわけで、説明が先延ばしになるのもおかしいし、例えば野党は相手が説明する前に追及することになる。まぁ、この辺は国会などが期限が切ってあるがために、先延ばしにすればうやむやになるし、早く追及しないと時間切れになる、という意思が働いているのかもしれない。
それにしても、みんな言葉遊びが達者ではある。
2023/1/21
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