第373話 どこまで行ってもアナログが勝つ

 今回はデジタルとアナログの話。

 GYAOがサービス終了ということで、僕はほとんど利用してませんでしたが、あるいはGYAO限定のコンテンツがあるのなら、それはどこかへ移転されるか、消去されるのでしょう。

 つい先日、GEOへ行ったら、中古CDは買取終了、販売も終了、という張り紙があった。もうCDを売る時代でもないのかなぁ、と感じましたね。サブスクというのを僕はほとんど利用してませんが、例えばYouTubeもなんらかの形で終焉を迎えると、莫大な容量の動画データとそれに付随するコメントなどの記録が消去されるのでしょう。ツイッターもそうで、サービス終了が起これば、そこで全部が消える。それを言ったら、カクヨムがサービス終了すれば、僕がここに直接、書き付けているエッセイのデータは全て消えますね。まぁ、適当に書いているので、あまりショックでもないか。寂しくはあるけど。

 さて、僕は徹底的にアナログにこだわるところがあって、紙の本やCDが大好きです。もっとも、火事が起こったりすれば全部が灰になるけど、そんなことは滅多にない。DVDはあまり手元になくて、これは経済的な理由です。

 いきなり脱線しますが、ネットの発達がもたらした大きな変化が、一つ、最近になって形になり始めているような気がして、おそらく最初のきっかけは、ネットが成立し、通信量が増えたところから始まるのでしょう。まず端末が強くなり、通信量が増え、やり取りされるデータが膨らんで、また端末が強化され、通信量が増え、データが膨らむ、という事態がありました。なんせ、僕が最初に使ったiPhoneは、16GBの容量でしたからね。今は126GBです。このデータの爆発的増加がネットというものに、「通信環境」という形以上に「情報の置き場」という役割を与えることになった。「イノセンス」における少佐みたいなもので、少佐本体はどこかに存在するけど、離れた場所の人形に格闘用のプログラムを送り込める、みたいに。現実の2023年を前にしたら、少佐も変な方向に悩んだだろうな。もはや脳殻の有無が個人を確定する要素ではない。個人とは発信者の一側面に過ぎず、発信者は発信された情報にぶら下がる些細な要素に過ぎず、つまり情報にこそ価値があり、発信者や個人などは取るに足らないものになる。実在するかしないかは、個人、発信者の在不在ではなく、情報についてのみ向けられる。少佐を構築する情報は脳殻と記憶だけど、バトーさんが言う通り、自分の脳を見た奴はいない。そして記憶もまた、擬似記憶かどうかは、誰にも断定できないのでは。現実の現在においては、記憶以上の記録が外部にある、と言える。しかもその記録はあやふやで、不完全に見える。記憶が拡張されたわけではない、というか。うーん、よく分からなくなってきた。このテーマは難しい。

 ともかく、少佐は本来的に生身の肉体を持たないけど、生身の肉体が究極的なアナログであって、唯一確実なものなのかも。そんなことを思った。なんか、めちゃくちゃな内容になりましたね。



2023/1/18

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