第370話 肯定される殺意は存在するのか

 今回は少し答えらしいものが浮かんだ話。

 これを書いている数日前、警察官がおそらく犯罪を犯した男性を射殺した事件があった。あるいは、射殺、とは言わないのかもしれないけど、とにかく拳銃で撃って、男性は死亡した。

 さて、ネットを見ると、殺されても仕方がない、という意見があって、その裏に見える「危険人物への相応の報い」というような感覚に僕はちょっと、馴染めないものを覚えた。

 日本で合法的に、日常的に、殺傷性の高い武器を持っているのは警官で間違いない。少なくとも普通の市民が銃で武装することはない。では、なんで警官が銃を持っているかを想像すると、危険な任務を負っているから、となると思う。なので今回の件も、社会に仇なす人間を排除した、というわけではなくて、警官自身が自分の身を守った、ということだと僕は思っている。

 最近だと、SNSなどで誹謗中傷をした人が捕まったりしているけど、ネット上で徹底的に叩かれることになる人がいる。炎上などという言葉では不釣り合いなほど、激しい攻撃を受ける。その攻撃をしている人は、あるいは愉悦に浸っているのかもしれないけど、どこかでは自分が正しい、と思っているのでは。

 他人を否定することが正しい、ということが、仮に罰を与えているのだとして、罰を与える権利は誰にあるだろう。それはおそらく普通の市民にはほとんどない。警察や検察、裁判所、あるいは法律を作る人が、その罰を受けるべき人間を確保し、調べ、話を聞き、決まりや前例に則って罰を決め、与える。

 警官のニュースを見た時、社会の総意のような錯覚の中で、社会が犯罪者の「何の経緯も経ない抹殺」を肯定したら、これは怖いな、と感じた。それは限りなく非合法に近い。その抹殺、処刑の前提にあるのが、その時その時の世論、人の感覚の風向きだとしたら、もはや無法地帯になる。

 犯罪者が報いを受けるのは必要なことだし、相応の罰が用意されないのはおかしい。しかし、犯罪者を裁くのは、気分ではないし、個人の感覚でもないと僕は思っている。世の中には家族を犯罪で失った人がいるし、家庭が崩壊した人や、普通の生活が送れない人もいると思う。そういう人たちはきっと、自分たちを害した犯罪者に、究極的な罰を求めると思う。その究極的な罰が最適かは、僕には分からないし、決めるのは社会になる。社会になるけど、時代に即した、バランスの取れたものでなくてはならないと思う。

 社会というのは人の集団ではあるけれど、社会の運営は常に公平であることが前提になると思われる。犯罪者は即抹殺、というのは分かりやすいし、効果的かもしれないけど、その発想はやや暴走しているようにも感じられる。軽犯罪でも抹殺される社会が来るのでは、と指摘すると、そんな無茶はしない、と大抵の人が答えると思う。そんな無茶が何故、起こらないと言えるのか、と問いを重ねた時、さて、どんな返答が来るのだろう。法律がある、と答えるだろうか。それとも、自分たちはそんな発想をしない、というだろうか。しかし、その発想は、その場その場の気分に過ぎないのでは、あまりに弱い根拠になる。

 どんなに、自分が正しい、社会もそれを認めている、と思っても、それは何の免罪符にもならないのでは、と思ったりした。まぁ、常守監視官とシビュラ・システムの問答より先へは進めてないのが、悲しいですが。



2023/1/14

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