第368話 「のだ」と「だろう」
今回は文章表現の話。
たまたま図書館に行く機会があって、雑誌のコーナーに「ダ・ヴィンチ」があったのでパラパラしました。その号は推し活か何かがテーマで、僕のよく知らない作家さんの掌編が載っていて、読んでみた。その時に気になったのが、語尾が「のだ」になっている部分。
最近は全く意識せずに書いたり読んだりしていたけど、「のだ」とか「なのだ」で締めると、文章がかなり強くなるし、固くなる。それはそれでいいのだけど、僕自身が何かを書く時に、断定的なことはあまり書かない傾向にあるのに気づいた。おそらく。無意識だけど。さて、それは正しいんだろうか。
読者に確定情報を与えないためにわざと曖昧にしているとすると、それは読者からすれば煮え切らない、あやふやな認識のまま先に進むしかなくなり、逆に不快かもしれない。小説、というか、文章表現では、確定事項は確定させ、それを覆すとすれば、どこかにきっかけ、伏線を用意することになって、覆されるということを読者の念頭から消しておくのがコツになると思われる。この時に作者の方に変な遠慮があると、確定しておくべきことを曖昧にしてしまい、ひっくり返した時の威力が落ちる。作家とは嘘つきであり、読者を裏切るものなのだ。(と断定してみたりするのであった)
この話をここで取り上げる気になったのは、掌編を読んだから、ではなくて、同じ雑誌の長濱ねるさんのエッセイを読んだ時にも、語尾が「のだ」となっている部分があったからです。これは僕の中の長濱ねるさんのイメージにはそぐわなくて、違和感が強かった。ただ、勝手なイメージだし、長濱ねるさんのエッセイを熟読したり、過去から現在までの活動を追っているわけではないので、それが長濱ねるさんの自然体かもしれない。
カクヨムにアップされているエッセイは読むことがあるけど、昔懐かしいブログに近い。長濱ねるさんのエッセイは本当にエッセイに近い。かと言って、村上春樹さんのエッセイや森博嗣さんのエッセイとはどこか違う。文章とは、かくも見事に個性を作り出してしまうらしい。
ツイッターをあまり真剣に活用していないけど、人が集まるアカウントだと、ものすごく過激な表現が普通に出てきてびっくりする。昔の2ちゃんねるかよ、と思うような場面も多い。それはツイッターが一回の投稿で140文字しか使えない、という部分から来たのではないと感じています。その段階は五、六年前に通過したのでは。今のツイッターは、誰も文章の長短は気にせず、簡潔に、自分の感情を強く表現することに必死になっている。だから、仮にツイッターの仕様が300字くらい一度に投稿できても、それで、表現手法が変わることはない。あるとすれば、より強くなる、という感じでは、と思う。
恐ろしいことに、攻撃的な発言ほど巧妙に言葉が使われて、攻撃する意志が徹底したものになる。僕としてはもっと柔らかい、どちらとも取れる言葉でさりげなく自己主張すればいいんじゃないの? と思ってます。それ以前に黙っているのが一番ですが。
言葉を選ぶ、という表現があるけど、語尾を選ぶだけでも印象が変わることを、一冊の雑誌で感じることができました。
2023/1/12
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