第330話 全知全能ではいられないのでは?

 今回はなんとも言えない話。

 僕は前にどこかに書きましたが、「作家」と「作品」は分離していて、作家の人間性などはあまり作品に影響しない、という人間です。

 さて、桜庭一樹さんがツイッター上で、作家と作品に関する思考のようなものを少し漏らしていて、唸らされた。

 おそらく、桜庭一樹さんは作家としての責任のようなものを感じている、と僕は想像していて、つまり僕とはまるで立場が違う。なんらかの発言力というか、明確な立場がある人には相応の責任が生じるのだな、と思った。

 よく、趣味を仕事にすること、について、色んな意見があるけど、僕はただの読書好きな人間で、名前もない存在だから、好き勝手なことが言える。まぁ、あまり否定的なことは発信しませんが。しかし、名前のある人、立場のある人は、どんなことを発言するにせよ、ある程度の節度が必要らしい。

 ただ、クリエイターが未来に罪を犯すことや、後になって罪が露わになった時、どうするのが正しいのか、は結論が出ないと思う。それは外部の人間には、その瞬間になるまで存在しないのと同義なわけで、存在しないものを加味するのは、神ならぬ人の身には不可能としかいえない。

 もう一つ、難しいのは、作品への評価は本来的に常に変動するのでは、ということ。これは僕が実際に感じていることだけど、桜庭一樹さんの最近のツイッターの様子を見ていると、僕が熱中した読書日記の作者とはまるで別人に思える。あの読書日記は脚色されたもの、演出されたもので、僕が桜庭一樹さんの実際を見ているように感じたのは錯覚だったのか、もしやいいように騙されていたのか、と思ってしまう。きっと今、読み直しても楽しめると思うけど、前と同じように読めるかは分からない。桜庭一樹さんはおそらく何の罪も犯していないけど、ただの意見表明のようなものですら、作品の評価に影響が出る。ただし、これだけははっきりしているのは、十年前、読書日記が僕のバイブルだったことと、あの時の気持ちは変わらないということ。思い出や感情、それさえもがいつか汚れるとしたら、この問題は相当に根が深いし、作品と作家の問題ではなく、人間性、人間の精神と社会の問題になると思う。

 ともかく、全知全能の人間はいないので、知らないことは知らないし、出来ないことは出来ない、で済ます余地を用意するべきなのでは。

 作品への評価、作家への評価とはまた違ったところに、作品に触れ、作家に憧れた人の個人的な思いがあるのではなかろうか、と思ったりもした。

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